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忘れる。思い出すために。

佇まいを見る。

声の強弱や息づかい、視線の動き、歩行のリズムなどそのどれ一つにフォーカスすることなくぼんやりと眺めるように感じる。

僕は仕事として人を観察し違和感や乱れたところを探し調整を施すことをしている。多くは痛みや不調を抱えた人がお客さんとしてやってくる。

観察と書いたが僕は本来人を観察することが好きではない。調整と書いたが調整するとは一定の目的をもって相手の身体を操作することなのだけれど僕はそうした他人を操作するということも好きではない。

幼い頃から人にマッサージのようなことをするのが割と好きだった気がする。あぁここが悪いんだなというのが自然に分かっていたような気がする。

自分がやっていることは世間的には施術するという行為として呼ばれ整体や治療、リラクゼーションのどの領域にもまたがったある意味非常に曖昧なものだ。

その曖昧な領域で受け手も自分も迷子にならないように第三者から見ても了解できる(はず)の観察と再現性を伴った調整を施すのであるけれど最近一番僕が大切にしていることはとにかく丁寧に相手の身体を感じることだ。そしてそれと同時にその感覚に閉ざされないでいること。密室の中でも風を感じること。

あぁここが何か気になるなとか。ここの通りが悪いなとか。なんとなく嫌だなとか。言ってみればそうした素朴な感覚を理論や今までの経験などに回収したりせずに見つけ、見つめること。そしてそれを何らかの方法で変えること。
最近では手の置き場所と置き方さえ定まってしまえば後は勝手に変わっていく。

これは僕が相手の身体を変えたのではなく相手と僕の間で起こった反応によってそうなっていく感じ。操作の結果ではなく出来事として捉えた方がしっくりくる。というより前者の操作しているという意識は全くない。それか僕を「触媒」にして相手が勝手に変わったというような。

触媒と書いたが「きっかけ」と呼んでも良いのかもしれない。僕が色々とわちゃわちゃ身体に触れたり動かしたりしてるのは相手が変わるためのきっかけを用意してるだけに過ぎないのかもしれない。

例えばバーのマスターが何気なく言った一言や友人が適当に言った言葉をきっかけにその帰り道や翌日からの心持ちが変わっていくことは少なからず誰にでもあると思うのだがそれと似たような事を相手の身体に対して一定程度には意識的に行っているということだろうか。(勿論良い方向に行くように)

先に相手の身体を丁寧に感じて手を置くことを大切にしてると書いたがそれ以来自分の施術に今までにはなかった軸というか足場のようなものを感じられるようになった。

足場や軸と書いたがそれらを感じられるようになったのと時を同じくしてこちらの視点も変わって来た。職業柄「悪い場所」「悪い習慣」などに目が行きがちだったのが「良いところ」を見つけられるようになって来た。

観察するという行為には観察する対象への「断罪」といったものが含まれやすい。とここまで書いたところでそれは単に僕が嫌な奴で未熟だからじゃないかと思ったがそうじゃなくなって来たのだから一応少なからずの成長として受け止めて話しをすすめる。

断罪をせずに良いところを探しその良いところがのびのびしていけるような身体の方向を見つけてあげること。何となく最近はそんな景色を眺めながら施術している。

そんな風に色々眺めてばかりだが理論や方法を学びそしてそれをすっかり忘れ去ったかのように相手の身体に触れること。


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