やわらかな地獄で
近くや遠くで無数の鳥達の鳴き声がしている。
昨日の朝よりも薄日のようだがそれでも部屋の空気は柔らかく寒さを感じない。
窓を開ける。カーテンを両端へまとめる。
植物に水をやり夕べのまま放置していた洗い物を流しへ持っていく。コンロに火をつけお湯を沸かす。
さして興味のないSNSのアプリをタッチし眺める。色とりどりの写真と共に人々のその時の想いや感情を綴った短めの文章が表示される。
綺麗に写そうという意図と構図。当たり障りのない文字の羅列やハッシュタグ。
疫病や紛争というおよそ歴史の教科書の中の出来事としか思っていなかったもの中で現在我々は生きている。
不安な世相や社会情勢とセットにスピリチュアルな言説や陰謀論といったものがインターネット上で多く見受けられるようになった。これは何も目新しいことではなく歴史の常だ。
生活や暮らしの自明性が脅かされる時に我々は何か確かなものや自分の存在に根拠を与えてくれるもの、説明してくれる言葉を求める。
自分、もしくは我々は何処から来て何処へ向かっているのか。
ルーツを民族の歴史や神話に求める人もいればそもそも生命とは、から宇宙とは何故存在しているのかといったように遡っていく人もいる。
そうやって宗教や科学の話題になると
「自分は何も信じていない」という台詞に時折出会う。
「何も信じていない」という信仰の吐露。
テーマもなく書いているので仕方がないが着地点が霞んで行ってるので仕切り直し。
とはいえ人間は自分が立つ分の足場やスペースについてさえほとんど何も知らずに生きているんだなと思う。
花粉症がないことをいいことにこの時期でも部屋の窓は開け放しにしてある。昼近くになると鳥達の声は遠くから少し聞こえてくるだけになった。
薄い音量で新作のアンビエントが流れている。聴き入ってしまう曲もありフィジカルで買おうか迷うところだ。
この数日先週の外食と酒の席の連続でお腹を盛大に壊していた。身体に負担をかけその反応としてお腹が壊れているのだから目に見えない私の内臓はきちんと「仕事」を果たしてることになる。春は排泄、デトックスの季節でもある。
風邪も引かず不調も感じずにピンピンしてた人が急な大病を引き寄せたかと思うと時を待たずしてあっけない最期になるというのは良くあることだ。
健康とは身体の丈夫さというよりは異常を異常として感じる力のことで正常にその力が働く時に起こる反応には食欲不振や発熱、排泄等がある。
病気とは回復の過程。という言葉がある。
一見すると我々にとって不快な症状も実のところ治癒してくために必然的に起こっている。それなのにも関わらずに我々は症状が起こるやいなや今までの自分の生活ぶりを見直すことも大してしないまま薬などによって良くしようという持って生まれた身体の奇跡のような働きを「鎮圧」するのだ。
私のお腹が回復過程のどの辺にあるのか少し心もとないがコーヒーを飲みたくなったので飲んでみることにした。
身体さんいつもわがまま言ってごめんなさい。コーヒー美味しいです。
かつて大学のゼミの担当教授の師匠筋であった人が自分の頭で物を考えずに身なりや生活水準の高さばかりを気にして他人と比較しながら生きている人間のことを「血色の良い死体」と呼んでいて随分辛辣だなと思ったが今日SNSの投稿を死んだ目で見ながらその言葉を思い出していた。
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