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パンに挟んだのはきゅうりだけじゃなくて

私は今、きゅうりを絞っている。指の間から溢れた雫はステンレス製の流し台にエメラルドグリーンの小さな湖を作っていた。95%以上が水分で出来ているという。自分のアイデンティティとも言える水分をこれでもかと絞られて、きゅうりは一体何を思うだろう。

「最低でも2回は絞りましょう」有本葉子さんは言う。きゅうりの気持ちを考えるととても3回も4回も絞れないので、2回でやめておいた。

私には、密かに注目している男の子がいる。週に2−3回、すれ違う高校生の男の子。あれはいつもより少し寒い冬の朝。学ランの上に鮮やかなスカイブルーのダウンジャケットという珍しいコーディネートは遠くからでもよく目立った。そのくせズボンの裾は捲り上げ、踝を寒風に晒しながら自転車のペダルを力強く漕ぎしめ前方からこちらへ向かってくる。私の真横を通り過ぎる最中、艶やかな黒髪をさらりとかきあげた彼の横顔に、天沢聖司を思わせる澄ました表情を認めた瞬間、儚くも瑞々しい生命力に支えられたその爽やかさに心を奪われた。

急にきゅうりサンドを作ろうと思い立ったのは、昨日娘が半袖で保育園から帰ってきたからだろうか。それとも、一昨日の朝すれ違った時の、学ランを脱いだ彼の真新しいYシャツの眩しさにまだ目が慣れていない気がしたせいだろうか。

朝5時、目を覚ましてキッチンに向かうと、東側に面する小さな窓から差し込んだ朝日は静かに我が家を金色に染めていた。明るくなるのがもうずぶん早くなったなと寝ぼけた頭で思いながら、コップに注いだ水を一口飲み込んだ。彼らと同じように朝も、とっくに夏の日々への支度を済ませていた。夏だけじゃない、いつだって朝は何よりも早く的確に季節を知らせてくれる。私はいつも、置いて行かれないようにとその背中を追いかけるだけで精一杯だった。

水分が抜けたきゅうりの一段と深さを増したグリーンは、自分が主役だと言わんばかりに初夏の太陽に向かって悠然と両手を広げる紫陽花の葉を思わせた。耳を切り落としバターをたっぷりと塗った食パン2枚。そのうちの1枚の上に2本分のきゅうりを使って作ったそれをすべて乗せる。端の方まで丁寧にきゅうりを食パンの形に整えたらもう1枚をその上に被せる。少しきつめにラップで包み、そのままそーっとナイフで2等分。これでもう、出来上がり。

有本流きゅうりサンドを知ったのは、「これ、作ってみたら美味しかったよ!」というツイートが偶然目の前に流れてきたから。その手のツイートは今までに何度もハートマークを赤く塗り、いつか作ろう、と自分のいいね欄にストックして来たが、実際に作ってみたのは初めてだったかもしれない。このレシピのシンプルさが私の手を動かしたことは言うまでもないが。

シャキシャキと小気味良い歯応えと共にきゅうりの青々しい香りがからだ中を駆け巡ると、ようやく私の体は夏を思い出したようだった。長らく会っていなかった友人と久しぶりに再会した時のような嬉しさに包まれた。

これから夏がやってくる。刺すような日差しから隠れるように日除け用の帽子を深く被る。そんな私を気にも留めず、彼はYシャツの袖口をたくし上げ、ハンドルを握るその白い腕は何の衒いもなく真夏の太陽の下に差し出されるのだろう。

絞られる前のきゅうりは、自分がどれほど水分を含んでいるかきっと知らない。そういうことは大抵絞られた後に気がつく。経験と知識を手にした分だけ、エメラルドグリーンの雫は指の間から零れていく。

・・・うん、確かに2本じゃちょっと足りなかったかな。有本さんのレシピでは1組のパンにきゅうり3本が推奨されている。はじめてだからと2本にしてしまう慎重さが今日はやけに不甲斐なく思える。きっと夏までには・・と、きゅうり4本を使ってしまえるほどの大胆さは用意したいと意気込むのだった。

▼私が参考にした有本葉子さんのレシピ動画はこちら。



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