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【読書感想】自分で考えること/著述と文体について/読書について

先日読んだ山口周さんの著者「仕事選びのアートとサイエンス」の中で、ドイツの哲学者ショーペンハウアーさんはかつて「読書はバカになるからやめろ」という内容の本を書いたと紹介されており、気になって自分でも実際に読んでみました。
(著者名を「ショーペンハウエル」と表記する場合もあるようですが、ドイツ語での発音を確認したところ、「ショーペンハウアー」の方が近いようだったので、今回はこちらで表記します。誤りあればご指摘ください)

実際に読んだのはこちら▼
※最寄り図書館にはこれしかショーペンハウアーさんの本がなかったので、こちらの出版社のものを読んだのですが、少々クセがあるため(Amazonのコメント欄をみると分かります)、個人的には岩波文庫など他の出版社のものをおすすめします。



本の内容は、ショーペンハウアーさんが1851年に出版した「余録と補遺」という本の中から「自分で考えること」「著述と文体について」「読書について」の三篇のエッセイ訳となっています。

「読書が好き」「自分で本を書きたい」というに人は一読の価値がある名著かと思いますので、内容の一部を紹介します。

まずはこの部分▼

自分の考えを持ちたくない奴は、たくさん本を読め!

冒頭から随分と挑発的です。

ショーペンハウアーさんは、1分でも空き時間ができたらすぐに本を読み、知識を詰め込むようなことをすると、自分で思索する時間が無くなるので、自分で考えたくないなら大量の本を読めと皮肉を込めて書いています。

もちろん、どんなに素晴らしい人でも常に思索をすることは難しいという話もしています。自分だけではなかなか考えが深まらないので、アイディアをもらうために読書をすることもあるだろう、とも述べてもいます。
ただ、読書をあまりにもすると、他人の頭で考えてもらうことに慣れすぎてしまい、自分で考えられなくなるという点を、言い方を変えながら何度も繰り返し説いているのが印象的です。

例えば一日中本を読むことについては「何も考えずにひまつぶしができて、いい休養になるかもしれない」という言葉を投げかけています。

なかなか辛辣ですが、言われてみれば確かにその通りだと思わずにいられません。本に限らず、テレビも、YouTubeも、Podcastも、ずっと情報が入ってくると、考える暇がなくなります。(「テレビを見てばかりいるとバカになる」とはよく耳にするのに、「本を読んでばかりいるとバカになる」というのはあまり聞かないのは不思議ですが)

近頃は「何もしていないのはもったいない!」と、ちょっとした待ち時間でもすぐにスマホを手にして新しい知識を詰め込みたくなります。
はたまた、自ら積極的に情報に触れようとしなくとも、電車内やホーム、事務所や商業施設のエレベーターなど、至るところに広告動画が表示され、否が応でも情報が目の中に飛び込んできます。
「インプットを一時的に絶つ」ということができなくなっている私たちは、危機感を覚えた方がよいかもしれません。

大切なのは「読まない技術」を身につけること

ショーペンハウアーさんは多読することに批判的ですが、読書自体を否定しているわけではありません。

人生は短く、時間とエネルギーは有限なのだから、良書だけを読むとよいと主張し、「悪書を読まない技術」を身につけることが大切だと説いています。

今回読んだエッセイの中に書かれていた次のようなことが、読まない技術を身につける手がかりになるかと思っています。(ぜひ実際に本を読んで、彼が「なぜこう言っているのか」を理解していただきたいです…!)

  • その時代に大部分の読者が飛びつく本には、あえて手を出さない

  • 古典は、現代人が書いた解説本ではなく、オリジナルを読む

  • 新しい書籍にはそれまでの知識が反映されているというのは思い込み

  • 学問領域では自己の存在を主張するために、これまでの正しい説を覆してばかげた自説を主張することが往々にしてある。

  • ある書籍を評価するためには、著者が「何を考えたか」ではなく、「どのように考えたか」を知ればよい

なお、最後の「何を考えたかではなく、どう考えたか」という部分は、最初に触れた山口周さんの書籍でも同じような文言が書かれており、その時にもいいなと思った言葉でした。
これは文章表現や演説だけではなく、現代アートなどにも言えるのではないかと私は思っています。「どんな作品かではなく、どうしてこういう作品をつくったのか」という視点で見ると、そのアートの評価をより適切にできるのではないでしょうか。

本は「素材」と「形」に注目せよ

え、本の素材は紙で、形は長方形でしょ?
…なんて思われたかもしれませんが、違います。

ショーペンハウアーさんはのいう素材と形の定義は次のとおりです。

  • 素材:何について書かれているか

  • 形:素材をもとにどのように書かれているか

そして、有名な本は「素材」がいいのか、「形」がいいのか、適切に区別するようにと私たちを諭しています。

例えるなら、おいしい料理を食べたとして、それは料理の食材がよかったのか、料理人の腕がよかったのか、区別するようなものです。素材がよければ、料理の腕が今一つでも、とびきりおいしい一品はつくれます。ショーペンハウアーさんはこのように書いています▼

月並みでつまらない人間も、彼らにしか手にすることができない素材を取り上げたおかげで、非常に重要度の高い本を書くことができる場合がある。

一方で、平凡な素材から目の覚めるようなおいしい料理をつくるには、それ相応のスキルが必要です。ショーペンハウアーさんはこう続けます▼

素材そのものは誰もが知っている、身近なものである場合もある。ここで重要となるのは形である。つまり著者が何を考えたかが、その本に価値を与えるのである。その場合、読む価値のあるものを書けるのは、傑出した頭脳をもつ者だけだ。

そして、それは会話も一緒だと説きます。
会話を「形」で進める能力のない者は、目新しい素材を仕入れることで勝負をする。一方、素材をたいして持っていなくとも、会話を「形」で進めることに長けていれば価値のある会話ができる、と。

さらに、書き手/話し手だけではなく、読み手についても「一般人の関心は、形よりもはるかに素材の方に向いている」と語り、「彼らの教養の程度が知れているのも、まさにこの理由による」とばっさり切り捨てています。

ネットが普及した今、おもしろい素材を仕入れることは簡単になりました。そして多くの人が、そんな話題を楽しんで読み聞きしています。書き手がどう考えたかよりも、「何が書かれているか」か注意の中心となっています。
そうした状況の中にいて、私自身も日々素材探しに労力をかけ、もっぱらそれを会話のネタにしていました。
しかしながら、今回ショーペンハウアーさんの本を読んで、いかに自分が凡人なのか思い知らされるばかりです。

ショーペンハウアーさん自身の著作の評価とは?

本を読むことや書くことについて、凡人と賢人の違いを述べてきたショーペンハウアーさんのこのエッセイは、150年以上経った今でも、どのページを開いても突き刺さるものがあり、彼の思索の深さには驚嘆するばかりです。

そんな彼の本は、出版当時どのように評価されていたのでしょうか。

31歳のときに主著「意志と表象としての世界」が発刊されていますが、この初版の発行部数はたったの750部だったそうです。(今回読んだ本のあとがきに記載されていました)

その後世間の脚光をあびるようになったのは、今回とりあげたエッセイを含んだ「余録と補遺」が出版された1851年以降で、63歳になってからでした。その後72歳で彼は逝去します。

美術作品にも類似例は多くありますが、作品が優れていることと、それが公開されてすぐに正当に評価されるかは別問題であることがよく分かります。

さらに過去を振り返れば、今や賢人として世界中で知られているソクラテスだって、「若者を堕落させた」という罪を着せられ、死刑になっています。彼さえも当時は正当な評価を受けられていませんでした。

現代から見れば「なんてことをしたんだ!」と思わずにはいられないのですが、一般市民は物事の本質を見抜き、正しく評価することができないという状態は長いこと変わっていない事実のようなので、今この瞬間も同じ状態にあるのだろうと私は想像しています。
ただ、「自分は物事を正しく評価できない可能性が高い」ということを多くの一般市民が知っていれば、過ちを最小限にできるのではないでしょうか。

おすすめしたい人

「年間○冊読むのが目標です」
「読書は好きですが、ビジネス書が中心です」
「本を書いてみたい!」
…という方は一度読んでみると、視野がぐっと広まると思います。
数ページだけでも思索を深めた彼の言葉はずしりと心に届くので、時間のない方は書店で試し読みだけでも、ぜひしてみてください。

残りの人生、いい読書をしたいものだ

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