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【読書感想】読書と社会科学

先月、「本を読むとバカになる」という主張を掲げたショーペン・ハウアーさんのエッセイを興味深く読みましたが、今度は日本の方が著した読書論も読んでみました。

経済学者である内田義彦さんが1985年に出版した「読書と社会科学」です。

内田さんの考える読書論と社会科学論が、すべて読者に話しかけるような口語体で書かれています。まるでセミナーを聞いている気分です。

これまで読書論について触れてこなかった私には新鮮な内容だったので、みなさんにも少しばかりご紹介します。

本の冒頭から、内田さんはこのように読者に語りかけます。

大事なのは「本を読む」ではなく、「本で読む」ことだ

…これだけだと、どういうことか伝わらないかもしれません。
補足するために、一つ例をだしましょう。
「ソクラテスに関する読書」について考えてみます。

この読書で大事なことはなんでしょうか。
ソクラテスに関する知識を覚えることでしょうか。

内田先生の視座から見ると、知識を詰め込むことは重要ではありません
大切なのは、この読書を通してソクラテスの考え方に触れ、自分のものにし、それを使って物事を理解できるようになることです
これが「本を読むことではなく、本で物事を読めるようになることが大事」という内田先生の言葉の意味なのです。

これは「食物」とも似ているかもしれません。
単に食品を口にするだけでは意味は薄く、きちんと咀嚼し、吸収し、それを栄養源として行動したり考えたりできるようになることが大事ですよね。(無論、そもそも栄養があるものを口にすることも大事です。読書だって、質のいい内容のものを選んで読む必要がありそうですね。)

「本の読み方」は二通りある

内田先生は、本の読み方には次の二通りがあると続けます。

  1. 情報として読む

  2. 古典として(=情報以外として)読む

わかりにくいかもしれないので、もう少し踏み込んで説明します。

1. 単なる情報として読む

これは自分の探している情報を見つけるためにざっと目を通すような読み方です。一般に古典と呼ばれる本を読んでいても、文章を味わうのではなく、拾い読みをしているのであれば、それは「情報を読む」の部類に属します。

「情報として読まれるための文章」もあります。新聞などです。
誰が読もうが、早く読もうがゆっくり読もうが、得られる情報はほぼ同一。単純明快で、一読して内容がよく理解できる類の文章です。
内田先生は「新聞は交通標識とよく似ている。深く読もうが浅く読もうが、受け身のままで明快に解る」と述べています。(昨今ミスリーディングな記事も多いので、浅く読むと内容を誤解してしまうものも少なくないのでは、と個人的に思いますが)

2. 古典として読む

前述した「情報として読む」こと以外が、「古典として読む」ことになります。わかりやすく言えば、作者の意図を理解するために、丁寧に読みこむことです。

なお、「古典」といっても、内田先生は「古い書物」のことを指している訳ではありません。読むたびに「あの時はこう読んだけれど浅はかだった、本当はこう書いてあったんだ」と感じさせるような、深みのある本が「古典」であると説明しています。つまり、何度読み返しても新鮮さを呼び覚ませられるような本です。最近出版されたばかりの「古典」だって、もちろん存在します。

国語の教科書の定番だった夏目漱石の「こころ」なんて、まさに「古典」にふさわしいと言えるんじゃないでしょうか。
社会人になってから全編を読み直した私は「授業で読んだときと全然違う…!」と驚いたのをよく覚えています。(大人になってからこうして驚くために教科書に載っているのか、と思ったくらいです)

これから必要となる読書スタイルとは

二通りの読み方を紹介した後、「古典として読む」ことの重要性を、次のような説明を添えて訴えます。

現在、本を情報として読む風習があまりにも強く一般的になってきており、古典として読む風習と技術が失われつつあるかと思う(略)
情報時代といわれ、情報はいっぱいあっても、自分の視点が定まってこないかぎり、氾濫する情報は、自分を押し流すだけで、自分の情報になってこないでしょう。情報が多いことが、そのまま悪ではない。情報を的確に選び取り、読むべきものについて読むべきほどのことを読みとる術を、手に入れなければならない。情報に流される事態から情報を使いこなす状態に変えなければならないでしょう。

2022年の今言われたとしても何ら違和感のない主張で、40年近くも前の本の一節だということを忘れてしまいそうになりますね。

「情報を受け取るための読書」から「情報を受け取るための眼を養う読書」へシフトしていくことが、これからますます求められそうです。

具体的に、どのように読めばいいの?

内田先生からのアドバイスは書籍の中に複数書かれていますが、ここではごく一部を抜粋して紹介します。

読みっぱなしにするな

内田先生は、丁寧に読む(=古典として読む)ために、読んだ後で感想をまとめておくことは重要だと指摘しています。

まず、読んだ本の中でどこが一番よいと思ったかをはっきりさせる。そして、それはどうしてかを考える。
「ここは〜だから、誰が何と言おうと今の自分にとっては、〜だった」ということをはっきりさせることが、感想をまとめる作業の基本と内田先生は述べています。(丁寧に読むために感想をまとめる必要があると述べていますが、感想をまとめるためには丁寧に読む必要があるとも言えそうです)

その整理作業を抜いて、読んだ後に「この本の筋書きは〜とした方がよかったんじゃないか」「著者は〜ということも書くべきだ」というような自分の意見をぶつけて終わるだけでは、本の内容を真に理解することはできないと注意を促しています。

他人の眼に頼るな、自分の眼で自由に読め

所謂「ファン」のように、ある特定の著者に対して「この人のものなら間違いない」と盲目的に読むこと、あるいは逆に「一般的に〜と言われているから、この著者の主張は絶対におかしい」とはなから内容を否定しながら読むこともよくないと内田先生は述べています。

ファンとして著者にもたれかかって自己の考えを持たずに読み耽ることも、通説や慣習にそぐう主張は正しくないと思い込みながら流し読むのも、「読み飛ばし行為」であり、丁寧な読み方ではありません。

安心できる他人の眼を頼って読むのではなく、頼りなくとも自分の眼で捉えたものを基に、自由な心持ちで読むことの重要性を訴えています。(内田先生は「これは難しい」とこぼしていますが)

高級な批判力を身につけろ

最後に、印象的だった「高級な批判力」という言葉をご紹介します。

内田先生曰く、「〜はだめだ」「〜は間違っている」という、誰にでもできるような批判は「低級な批判力」です。
それでは高級な批判力とはどいうものでしょうか。

俗眼にみえない宝をー未だ宝と見られていない宝を、宝としてー発見する能力です。 ポジティブにものを見る眼ですね。

…と、内田先生はやや抽象的に説明します。

具体例がなかったため私の想像ですが、
「〜の部分がいいから、もっと〜した方がいいんじゃないか」
というような批判ではないかと思います。

考えてみると、私はプレゼンテーションやスピーチを聞く時に、ついつい低級な批判ばかり頭の中に浮かんできます。
実際に「聞く」場面だと自分のペースで考えることができませんが、ゆっくり読書しながらなら、意識的に高級な批判力を養成していくことは可能かもしれません。今後実践していきたいと思います。

補足

読書論だけではなく、著者の社会科学論についても触れようと思ったのですが、長くなりそうなので今回はここで一度切ります。
「読書論」だけではなく、「社会科学」に興味がある方にとっても非常に興味深い内容が詰まっていますので、ぜひ原書をお読みください!

誰かのフレームじゃなく、自分のフレームで読むのだ




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