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創作琵琶歌「奥州白石娘敵討」

新しく作った琵琶歌を、Youtubeにアップいたしました。
その名も「奥州白石娘敵討」。
「おうしゅう しろいし むすめかたきうち」と読みます。

最初に申し上げますが、私、奥州にはほとんど縁のない関西人です。ごめんなさい。
のっけからそんなことを白状せねばならん私が、なぜこの歌を作ったのかといいますと…。

薩摩琵琶は、もともと薩摩国の武士階級が中心となって作り上げたものです。
なので、歌の内容は、もっぱら戦のお話が多いんです。
昔の戦といえば、そりゃ、戦ってる人はたいてい男性です。
もちろん女性が出てくる歌もありますが、だいたい泣いてます。泣いて、夫とか恋人とか家族とか、身内の男性のことを思っているわけです。
今、私たちが受け継いでいる錦心流の琵琶歌が作られたのは、だいたい明治末期~昭和初期のことで、当時はこうした男性観・女性観が根強かったことは事実ですから、今ここで、このことをあーだこーだ言うつもりはありません。
それにしたって、琵琶歌の中で勇ましく行動する女の人、少なくないか?
思いつくのは、木曾義仲の愛妾にして重臣、馬を駆ってなぎなたを振るい、敵の首をねじ切るほどの怪力の持ち主だったという、巴の前(巴御前)くらいでしょうか。
自分を裏切った恋の相手を恨んで大蛇になったり(道成寺)、一目惚れした武将に結婚を断られたけど未練が募って追いかけていったり(辨内侍)、最期の戦に思い残すことがないようにと、夫の出陣に先駆けて自害してしまったり(木村重成)、ある意味行動的な女性もいることはいるんですけどね。

とまあ、こんな話を、とあるライブの時にしていたんです。
すると、そのライブに来られていた方が「こんな話もあるよ」と教えて下さったのが、この「娘敵討」だったんです。

時は江戸初期、仙台藩は伊達政宗の時代。
政宗の家臣・片倉小十郎が治める白石城下の逆戸村に、与太郎という貧しい農民が住んでいました。
ある日、与太郎はふたりの娘たちと共に田んぼの草取りをしていましたが、末娘が何気なく、取った草束をあぜ道に投げたところ、通りかかった志賀団七という侍に、その草が当たってしまいます。
この団七、粗暴なことで有名だったそうで、いきなりブチ切れて娘を斬ろうとします。
父親の与太郎は、娘たち共々必死で頭を下げて詫びたのですが、団七は聞く耳を持たず、刀を抜いて与太郎を斬り殺してしまうのです。
娘たちは命からがら逃げ帰りましたが、病の床についていた母親(与太郎の妻)は、これを聞いてますます病が重くなり、程なくして亡くなってしまいます。
突然、親を失ってしまった姉妹は、しばらく途方に暮れていましたが、やがて田畑を売り払うと、江戸へ上ります。
訪ねた先は、当時、江戸一の兵法者と呼ばれた由井正雪の屋敷。
そこで彼女たちは、
「私たち、悔しくてなりません。何としても父の敵を取りたい。でも、団七は剣の達人、農民の娘である私たちは戦う術を知りません。どんなご奉公でもいたしますから、どうか、私たちに兵法をお教え下さいませ」
と願い出るのです。
正雪は姉妹の熱意に心を動かされ、ふたりに兵法を教えることにします。
それから五年の月日が経ち、寛永十七年、ついに決着の時が……。

と、ざっくりいうとこんなお話です。
これは「慶安太平記」という、江戸時代に流布した本の内容なんですが、このお話にはいくつかのバージョンがあって、その中には「碁太平記白石噺」という、歌舞伎や文楽の演目として親しまれているものもあります。

いや、単純に、何かかっこよくないですか。このお話。
それにですね、この姉妹、妹はなぎなたで、お姉ちゃんの方は、鎖鎌と手裏剣で闘うんです。
(鎖鎌、歌詞には「陣鎌」とあって、厳密には鎖鎌とは違うようなんですが、形状がほぼ同じらしいことと、現代では鎖鎌の方が通りがいいので、このように書いています)
白無垢の小袖に身を包み、各々なぎなたと鎖鎌を携えた娘たち……ね、かっこよくないですか(二度言いました)。

で、このかっこいい姉妹を、どうにかして琵琶歌の中で活躍させたい!と思い立ってから、早や2年。
古文調での作詞やら筋書きの整理、時代背景や武器の詳細を勉強しつつの制作だったもので、かかっちゃいました、2年。
今は「やっとできたーーー!」という達成感の方が勝っていますが、そのうち至らぬ点がどかどか見えて来て頭を抱えることになるのでしょうけども、ともかくも、できました。
姉妹はどう思うかなあ……かっこよく表現できてるでしょうか。

というわけで、長々と書きましたが、曲も15分と長丁場ですので(といっても琵琶歌では標準サイズですが)、ゆるっとお楽しみ頂ければ幸いです。

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