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冒険家になるには

一般的に「◯◯家」というのは、誰でも、いつでもなれる。

私は「冒険家」を対外的な肩書きとして使っている。時々「どうやったら冒険家になれますか?」と聞かれることがあるが、そんな時は「名乗ればいいんです」と答えている。

「◯◯家」は、言ってみれば全て「自称」でしかない。なるための試験があるとか、資格が必要とか、そんなものはない。

「◯◯士」もしくは「師」などの、いわゆる「士業」は資格が必要だ。弁護士、会計士、行政書士、司法書士、弁理士、税理士、薬剤師、医師、教師、などなど。資格が必要で自称では名乗れない。一部「占い師」みたいな例外もある。

でも、小説家、画家、音楽家、作家、格闘家、演出家、冒険家、探検家、評論家、料理研究家、陶芸家、写真家、すべて「自称」でイケる。

もし私が明日から「俺は写真家だ!」と言い始めたところで、他の人から「いや、君は写真家じゃないね!」と言われる筋合いはない。

自分で「俺は写真家だ!」と名乗り、周囲が「そうだね」と同意するかどうかは別問題となる。それで世間を渡っていけるかどうか、も別問題となる。

どうやったら冒険家になれるか、についてはこの通りなのだが、では、現実的な問いとして「冒険家」と言われるような生き方をし、そして周囲も「確かに」と思わせるためには何が必要か、というと、それは「どれだけ主体的な遠征を計画し、実行してきたか。そしてその結果として、どれだけ成果を残してきたか」にかかるのだろう。

「主体的な遠征」というのは、自分発でのアイデアにより、何かの計画を思いつき、そして実践していくということ。

そうではないもの、と逆説的に考えるならば、どれだけ表面的に危険そうな遠征を行っていても、それが誰かの計画に「参加」しているだけだったり、そもそも自分の内発的な動機付けではない、計画立案時から外部性に依存したもの、ということだ。

自分で思いつき、自分で考えた計画を、主体的に実践していく。その過程を自らの手応えの内で遂行していくことが「冒険家」と呼ばれる人々には最低限必須のものとなる。

ただ「参加」しているだけでは「お客さん」でしかない。

大きな遠征でなくても良い。小さなものでも良い。自分で考え、計画し、実行することが必要だ。

主体的に考えられた遠征においては、あらゆることが他者に対しても、または自分自身に対しても「説明可能」になってくるはずだ。

例えば、どこかの山を登るとして、なぜそのルートを選んだのか?なぜその道具を使うのか?なぜその日程なのか?あらゆる疑問がある。

ただのお客さんには、実はそれらに答えることが出来ない。ある程度は答えられても、どこかで必ず行き詰まる。「いや、ガイドさんがその装備を用意したので使ってます」「この登山に申し込んだのがこの日程だったので」「ガイドさんが案内してくれるルートがこのルートでした」

装備を使うにも、世の中には似たような装備が山のようにある。自分も北極で、さまざまな装備を使う。

テントにも無数の種類がある。ウェアにしても、寝袋にしても、スキーもマットも、ロープやカラビナ一個に至るまで、たくさんの装備を使う。

なぜAというメーカーの寝袋を使っていて、似たようなBではないのか?なぜならば、と説明できる。

全ての装備、計画の全て、食料の全て、自分には他者に対しても、自分自身に対しても説明ができる。

それが説明できないとダメだ、ということではない。説明できるできないというのは、結果としてその道具であったり計画であったり、それらを自らの内で制御しきれているかどうか、という言い換えだ。

「弘法筆を選ばず」
本当の達人であれば、道具が何であろうとその道具を制御しつつ最善を得る方法を生み出せる。

その説明が他者に対しても、また自分自身に対しても出来ない領域を残しながら成功することを「偶然の成功」と呼ぶ。

何かの結果というのは、小さな事象の積み重ねの末の結果だ。説明不可能な領域を残したまま、というのは、言葉を変えれば「制御不可能な領域を残したまま」ということだ。

自分の計画の内容が、自分でも説明ができず、制御が効いていない状態というのは、冒険ではなく「無謀」の領域だ。そこで成功したとしても、それは運が良かっただけであり、偶然の成功でしかない。

「偶然の成功」はよくあるが、失敗には常に必然性が宿る。

説明可能性を高めていくことは、成功の必然性を高めていくことでもある。

が、成功に完璧な必然性は無いように思う。必然性を高めることはできても、必然には至れない。

その全ては「主体的に考えること」から始まる。

お客さんであるうちは、自らの冒険も、人生ですらも制御も説明もできない。


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