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「自己責任」と発することで「自己責任」から逃げる心理

責任とは英語では responsibility。response + abilityである。つまり応答能力。何に対する応答であるか?それは、自らの内から沸き起こる「内なる声」である「意思」への応答だと言える。

責任とは意思への応答能力を示す。

ところが日本には責任に「自己」をくっつけた「自己責任」という言葉がある。あまり疑問を持たずに使われることが多いが、この言葉には大きな矛盾がある。責任の「応答」とは何に対してであるかと述べれば「自己の意思」である。つまり「責任」と言う言葉の中に「自己」の意味を初めから含んでいるはずだ。「癌」という「病」と言っても、「癌病」と言わないのと同じようなことだろう。癌は病であるから、ちょっとおかしな響きになる。

ではなぜ、日本ではやたらと「自己責任」という言葉が使われるのか?それは、潜在的に「責任」の中に含まれる「他者責任」とでも言うような、責任主体の枠外に及ぶ責任性を感じているからではないか。

例えば、ある男が派遣切りや不況のあおりを食らって、食うに困ってコンビニ強盗をしたとする。生活保護もギャンブルに費やし、あまり同情の余地がないときに「そんなの、本人の自己責任でしょ」と使われる。

しかし、多くの人の意識には、ほんの少し立場が違えば、ほんの少し人生の流れがどこかで変わっていれば、自分がコンビニ強盗側にいたかもしれないし、そんな派遣切りを大量に生み出すような政治体制を作り上げた「責任」を自分の心のうちの、ほんのわずかな隙間に感じている。そんな時、自分とそのコンビニ強盗の関係性を断ち切りたいと言う思いが心に湧いてくる。仏教的に言うような「縁起」の全体関連性を、どうしても感じてしまう。山本七平的に言えば「自己責任」と切り捨てる対象を「臨在感的把握」によって、自分の意識を対象に乗り移らせてしまう。それを心に感じた時に「いや、俺とそいつは違う」と拒絶反応が起こる。

責任とは自己の意思に対して応答するものであるはずなのに、他人の意思に応答する日本人が多い。それは、良くも悪くも日本人の特徴であり、他者に自分の気持ちを投射して、同一性を感じてしまう。だからこそ「自己責任」と宣言して「俺は関係ないからね!」と心の中で無意識に主張する。「自己責任」という言葉で、明確に責任主体はその男だけだと、壁を作ることで自分の心の安定を図るのだと思う。

つまり、自己責任という言葉によって他者を攻撃しながら、自分の心の安定を図り、自分の「責任」の所在を曖昧にする効果があると、無意識に感じているということだ。

そう考えると「自己責任」という言葉を発する人は、自分の責任からも逃げている人であると言える。

ただ、そもそも日本人には「責任」という言葉は不十分な表現でしかないため、逃げている人にもまた「責任」はないのかもしれない。

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