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「勇気ある撤退」は誰のための言葉か

冒険家なんて肩書きで活動していると、よく言われる言葉として「勇気ある撤退」というものがある。

かつて、私も北極点無補給単独徒歩というかなり難しい課題に臨み、途中で撤退して帰ってきた時も「素晴らしい、勇気ある撤退ですね」なんて言われることがあった。

そう言われる度に、その返答に困る。大抵は、間抜けな顔をしながら「はぁ」とか「へぇ」と気の抜けた返事でお茶を濁すしかない。真面目に答えようとすれば面倒になることが目に見えているし、その言葉を発する目の前の人は、特にそれほどの深い意味を込めて言っているわけでもなく「お疲れさんでした」の言い換えとして「私はあなたの挑戦を素晴らしいと思っていますよ」という意味を込めて「勇気ある撤退ですね」と言ってくれているのがわかるだけに、否定もしずらい。

結論から述べると「勇気ある撤退」というものは、我々行為者自身には存在していない。

「勇気ある撤退」という言葉は、行為者以外の周囲の人は言っても良い言葉であって、行為者自身が「はい、僕、勇気ある撤退をしてきました!」などとサムズアップでもしながら言うほど、支離滅裂なものもない。

それはなぜか?

そもそも「勇気ある撤退」という言葉がどういう語義を含んでいるかを考えてみる。

私の極地での経験からの言葉を述べるので、異論のある人もいるだろうし、全てが社会での経済活動などにそのまま適応するとは限らないが、合致する部分も少なからずあると思う。

デジタル大辞泉によると、勇気とは「いさましい意気。困難や危険を恐れない心。」とある。つまり、何かに対して立ち向かっていく気持ちのことだ。

まず、語彙の微妙なニュアンスの違和感として、勇気が「立ち向かう」時に必要であるのに対して、撤退とは「立ち向かうことをやめる」という、反する語義が併存していることにある。「勇気ある撤退」をそうやって噛み砕いてみると「立ち向かう気持ちを持って、立ち向かうことをやめる」となる。

後者の「立ち向かう」は、私であれば北極点に向かって進もうとする、視線の先にある「立ち向かう」べきものだ。厳しい自然であったり、想像される苦難に対して、立ち向かう気持ちだ。それをやめることが「撤退」であるということ。

前者の「立ち向かう」は、「勇気ある」にあたる部分だ。撤退するのに必要な「勇気」って何だろう?北極点への挑戦をやめて、帰る先にある「立ち向かう」べきものがあるのだろうか?帰る先にある「立ち向かう」ものとは何か?それは「失敗」という烙印を背負うことであったり、大言壮語して後にしてきた社会に対する負い目であったり、資金を出してくれたスポンサーに対する重圧であったり、かっこ悪い気持ちだったり、そういう気持ちではないか?

後者の「撤退」することにまつわる「立ち向かう」は自然の中の理屈であるが、前者の「勇気」にあたる「立ち向かう」は、戻った先にある社会の中の理屈ということになる。

ここで問題になるのは、自然の中での活動である冒険行為において、現場の行為判断の主体として社会の理屈があって然るべきか否か?ということだ。

結論は簡単だ。自然の中での振る舞いに対して、その行動をやめるか続けるかという判断材料として社会の理屈を持ち込むべきではない。自然の理屈と社会の理屈は、一切関係がないからだ。

「スポンサーがお金を出してくれたのに、ここでやめるわけにはいかないよな。これで帰ったら、なんて言い訳しようか。次はもう応援してくれないかもしれない。だからもう少し頑張ってみよう。危ない場面だけど、もう少し行ってみよう」と、もし考えたとすると、これは完全に判断の主体を自分の手元から放棄している。

判断の主体は、常に「いま、ここ、自分」でなくてはならない。

社会の理屈を自然の中に持ち込むと、「いま」ではない「いつか」を考え出す。大言壮語した過去だったり、帰ってカッコ悪い思いをする未来だったり。「ここ」ではない「どこか」を考え出す。北極の現場ではなく、日本での事情だったり。「自分」の目線ではない「誰か」の視線に束縛される。

「いま、ここ、自分」がやがて「いつか、どこか、誰か」に主体性を奪われていくことで、判断は放棄されていく。

私にとって、勇気とは前進するために必要な気持ちである。撤退という、後ろに下がる時に持つ気持ちではない。撤退するときに必要なものは「客観的な妥協」でしかない。どこかで折り合いをつけて「妥協」し、それを「客観的」に行うしかない。

要は、将棋で言うところの「詰んだ」状態になっているにも関わらず、それに対して「参りました」と言うのに勇気が必要だろうか?ということだ。いや、ここでやめる訳にはいかない、みんなの応援を背負って頑張っているんだから、打開策があるはずだ!!あ!!この「歩」を一歩後退させれば状況が打開できるぞ!なんて、打てもしない手を考えたりし始める。こうやって暖かい部屋でキーボードを打っていると、この詰め将棋の例えで歩を下がらせるなんて手を考えることを笑い話として書くが、実際のガリガリした極地の最前線の現場では、社会の事情とか自然の事情とかそんなものも全て吹き飛んで、打てもしない手を考えて状況打開を図ろうとする自分もまたいるのだ。

そのあたりの詳しい心の動きは、私の「考える脚」を読んでいただけると詳しく書いている。

話を「勇気ある撤退」に戻す。多くの人が「勇気ある撤退ですね」と言うときに、そこに含んでいる真意としては「執着しなかった」ことへの賞賛もあるのだろう。ゴールすることよりも、命の方が大切だ、だから本当に厳しい場面でゴールを選ぶのではなく命を選択したことに対して、素晴らしい判断をしましたね、と言うことなのだろう。

しかし、やっている当事者としては、それは結局のところ「妥協」なのだ。命がけで死んでも良い、とは思っていない。死を受容しているつもりはサラサラないが、一方で死の領域に迫っている実感もあり、崖のキワをどこまで迫ったら落ちないままに、エッジを渡れるのだろうか?俺はここで戻る判断をしたのだが、それは本当に正しかったのだろうか?という疑問は常に残る。

常に疑問を抱えたままで、その撤退判断に対して無条件の賞賛を浴びせられると、これは返答に困ってしまうのである。

命が大事なのは百も承知だし、生きていれば次のチャンスもある、なんてどこかで聞いたようなセリフも知っている。でも、人生一生分の思考を注ぎ込むほど考えても正解が分からない極地の現場では、どうしても、絶対に思考の正解には到達できない。

全ては、人間には「感情」があるからだ。

社会だろうが自然だろうが、理屈や理論でカタがつくような問題なら話は簡単だ。そう簡単にならないのは、人間には感情があるからだ。

でも行きたい、進みたい、もう一歩試してみたい、そんな気持ちがある。そもそもそれがなければ、極地の厳しい現場には立つことすらできない。

例えるならば、感情はエンジン、理性はステアリングだ。感情(エンジン)が暴走するとき、確実に人間は理性(制御)を失う。

感情と理性という、二つの大きな車輪が私の左右でぐるぐる回っているようなイメージがある。その二つの車輪が、同じ大きさで、同じ回転数でシンクロしているときに、自分の思った方向に進むことができる。

しかし、時にそのバランスが崩れてしまう。特に、感情の暴走だ。明らかに詰んでいる場面でも、歩を後退させれば状況が打開できる!と考え、そんな手を思いついた俺は天才だと、自画自賛し始める。

私が北極点無補給単独徒歩の現場でやっていたのは、感情と理性の制御だった。感情と理性は自分の行為を制御するのだが、その感情と理性をどう制御するか?自分を制御する感情と理性を、どう自分で制御するか?

この段において、意志の力が放棄される。感情と理性は、意志の産物だ。意志の力を放棄し、自律的な自分からあらゆる関係性の中の一存在として振る舞う自分であることを受容した時に、人間という動物であり、一個の機械的な存在となる。自分でプログラミングした命令文で動く、ロボットのような気持ちだ。

意志、根性、情熱、などというのは対人間という状況では意味がある。相手も人間なら、事情を汲んでくれたり熱意にほだされて手心を加えてくれたりする。しかし、自然はまっっっっったくそんなものを忖度してはくれない。関係ないのだ。

感情は、邪魔だ。意志も、邪魔だ。でも、それがなければその場にすら立てないし、足は出ない。しかし、それが自分の判断を狂わせる。

自分は何者か?自己とは何か?他者とは誰か?北極とは何か?どこからが自分と北極の境なのか?自分の身を北極に溶け込ませるように、その場になりきるように歩く。

そこには、撤退に勇気という言葉が介在することは、あり得ない。


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