多様性は認めるものか?

警察署に行って、道路使用許可を認めてもらう。と言う時、警察は道路使用をする側にはいない。許可を得る側が道路使用をするわけだ。

多様性を認める、と言う時、認める主体はどちら側にいるのだろうか?果たして多様性を認めると言う人は、多様性の側にいるのか?それとも、多様性の枠外から眺めているのだろうか?

一般的な視座から言えば「認める」と言う主体に対して「認められる」対象が存在する。その時、認める側と認められる側には、分断がある。

つまり、多様性を僕は認めます、と発言した途端に、その人は多様性の中ではなく外にいることになる。多様性の外に、多様性は存在しているのだろうか?

多様性は、認める認められるの二項対立ではなく、自分自身も多様な一存在であるという「自覚」であると、自分は思う。


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