見出し画像

「寒いから凍傷になる」の間違い

マイナス50℃以下の世界

私は北極でマイナス56℃まで活動経験がある。

揺れ動く北極海の海氷上で、真っ暗闇の中、一人きりで、テントと寝袋でいるのは恐怖そのものだ。

マイナス40℃くらいまでは表現として「寒い」の向こうにある「痛い」の世界であるが、マイナス50℃を下回ると「痛い」の向こう側の世界が待っている。

それは「締めつけられる」とでも言うか、自分自身が雑巾になった気分で、マイナス50℃の冷気が体をギュウギュウと絞めつけてきて、まるで雑巾に残った最後の一滴を搾り取るように、冷気が私の体から熱(命)を搾り取っていく感覚がある。

その場にいるだけで、圧倒的な圧迫感と、危機感がある。いるだけで生命の危険を感じるのだ。

なんていう話をすると「凍傷ってならないんですか?」と聞かれる。

私は「なりませんよ」と答える。

「よほど凄い手袋とか使ってるんですね」と言われても「いや、特に特別でもないです」と答える。

「体質ですか?凍傷になりにくい体質なんですか?」とも聞かれる。凍傷になりにくい体質なんてあるのかどうか知らない。多少の個人差はあるだろうが、大差はないだろう。

なぜ凍傷になるのか?

「寒いから凍傷になる」というのは、間違いだ。

いや、間違いというよりも、順序が違う、というべきか。

では、何によって凍傷になるのか?と言えば「無知だから」凍傷になるのである。

結果的に、寒いから凍傷になるのだが、その前段階があるのだ。凍傷になるというのは、結果的に起きた現象に過ぎない。

自動車の運転に例えてみればわかりやすい。

車を運転していて信号のある交差点に差し掛かった時、ちょうど携帯に電話の着信があり、そちらに気を取られて赤信号であることを見落とし、そのまま直進して交通事故に遭ったとする。

なぜ事故に遭ったんですか?と聞かれて「いや、車を運転していたから事故に遭ったんです」と言うだろうか?

事故に遭うまでの前段階があるはずだ。その日は偶然に携帯を見たからかもしれないが、いつも運転中に携帯を触る習慣がついてしまっていたことも引き金になっているかもしれない。車を運転していた、というのは事故に遭うまでの前提条件に過ぎない。それは理由にならないのだ。

凍傷も同じだ。そもそも車を運転していなければ交通事故に遭っていなかったように、そもそも寒くなければ凍傷にはならない。

寒いというのは北極を歩き出す前から分かっている前提条件でしかない。分かっているはずなのに「寒いから凍傷になりました」と言うのは「いや、寒さのせいじゃなくて自分の備えが悪かったんでしょ」となる。

凍傷とは、寒くてなるものではなく、無知だからなるものだ。

想定される気温や風に対して、どんな装備が必要か、その装備をどのように使うべきか、凍傷はどんな段階を経てなるのか、などを理解し、経験を積んでいけば凍傷にはならない。少なくとも、私は指先などの深刻な凍傷に繋がるものはなったことがない。

「寒さ」という初めから分かっているはずの前提条件を原因として挙げるのは、自らの無知を披露しているに過ぎない。

自然の中での困難とは、前提条件にあるのではなく、変化を伴う時に顕著になるものだ。

変化を伴う時に顕著になる困難さとは?それはまたいずれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?