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フィットオブユアライフ

その男は黙々と、厚い本を読んでいた。

本のタイトルはフィットオブユアライフ。貴方に合った人生。何か人生についてのヒントを探しているのだろうか。僕は電車の席に座って、向かい側に座っている彼を観察していた。

僕の癖なのだ。よく電車の中にいると、誰かを観察しようとしてしまう。隣にいる人のスマホの画面や本の内容を、つい覗いてしまうのだ。無礼な行いだと十分承知しているのだけれど、人の生活の一部を見ているようで、少し楽しい。

フィットオブユアライフ。自分にとって最適な人生。個人の人生や生活がここまでプランニングされ始めたのは一体いつからなのだろう。

自分に合った人生。
私にとって最適な生き方。
あなたにとって最高の職業。
心地よい生活。

最近は広告や本屋さんでこうした言葉をよく見かけることが多い気がする。電車で黙々と読んでいたあの人も、自分にとって最適な人生を求めて読んでいたのだろう。

なんだかそんな風潮に対して、少し思うところがある。自分の生活や生き方を外部に頼りすぎている気がするのだ。
勿論、人それぞれ考え方はあるだろうけれど、結局のところ自分の生き方は自分しか知らない訳で、外部に依存するものではない。

外部に依存する生活。

僕たちの社会のほとんどは外部に頼りっきりな気がする。

朝起きる時は目覚ましで起きて、朝食は食べやすいように切られた食パン。1日の情報はスマートフォンで知り、移動する手段は電車やバス。お昼はどこかの店でランチを食べて、家に帰ると晩御飯はコンビニ食。自分で調理するにしてもある程度の既製品を使う。寝る時は心地よい枕とベッドで眠る。1日の中の99%が、外部に依存した生活と言える気がする。

マーシャルマクルーハンはメディア論で、「全てのメディアは人間の拡張」と説いていたけれど、まさにその通りだ。人間の活動の殆どが、外部というメディアに発注されている。

自分が何が好きで、何を食べたくて、何がしたいのか。どのようになっていきたいか。自分の考えや選択には必ず外部依存を伴う。

私が決めたという純粋な意思決定は一体どこにあるのだろうか。

どこまでが自分の好きで、どこから誰かの好きなのだろう。
どこまでが自分の食べたい物で、どこから誰がの食べたい物なのだろう。
どこまでが自分の生き方で、どこから誰かの生き方なのだろう。
どこまでが自分の考えで、どこから誰かの考えなのだろう。


元来、人間は共存する生き物だけれど、ここまで支え合っていると、一部の歯車が狂いだすだけで全て崩壊しそうな気がする。

人の生き方も生活もマニュアルに頼ろうとする現代は、外部に完全に依存した社会の次のステップなのかもしれない。まるで劇の台本のようだ。

舞台は整ったので、あとは台本通りに踊って、言葉を発するだけだ。アドリブが効かないから、誰かが台本を飛ばしてしまうと劇全体は崩壊する。完全に整った舞台には自由さはないのかもしれない。

この文章も数多ある情報を寄せ集めて、私の頭の中でまとめて発している。私というメディアを使って、誰かに発信をしている。自由な発想のように見えるかもしれないが、外部に頼って、依存して、言葉にしている。

自由に言葉を連ねているように見えて、誰かの台本を読んで言葉にしているだけなのだ。自由の真似事。自由に見える戯言。

私たちの言葉が、行動が、意識が、自由の真似事だとしたら、それは悲しいことなのだろうか。

物語の登場人物は、たとえば彼らは物語の中という制限された自由を生きている。彼らは物語の中で喜怒哀楽という感情を持ち、考える。アイデンティティさえある。けれどそれは物語で生み出されたものに過ぎない。けれど物語に生きる彼らは、自分達は自由な感情を持ち、物事を考えていると偽りなく信じている。

私たちだって同じなのではないのだろうか。人生という外部にお膳立てされた物語を生きる、数ある中の一人の登場人物なのだとしたら。
人生のエピローグはとっくに決まっていて、それまでのルートをただ歩いているだけに過ぎなかったら?けれどそれが真実なのか証明する方法はない。

過激な考えだと思うけれど、時々そんなことを考えてしまう。けれどそれが不幸だとは思わない。

人生が決まっていたとしても、それが必ずしも悲しいエンディングであるわけでもなし、幸せなハッピーエンドなのかもしれない。確定した未来を観察することはできないなら、ただそのルートを進むしかない。生きるとは整った舞台で華麗に踊る踊り子のようなものなのかもしれない。










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