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私という物差し

私とはなんなのだろう。と考えた時に、それは物差しなのだと思う。私と物事の距離感を測る物差し。

自分について考えた時、僕は深い沼にハマったような気分になって落ち込む。自分という存在はもちろん表面上にはあるけれど、その中身へ潜って行くほど理解し難いものになるからだ。

まるで未知の生物が存在する深海のように。

僕は思うのだけれど、自分という存在はその他の存在との関わり、その距離の間に住むものなのじゃないかなと思う。

例えば僕は音楽が好きだ。音楽を聴いている時、心が安らんだり、幸せな気分になる。自分と音楽との距離の間には多くのストーリーがある。それであればをうまく自分というものを言葉にすることができる。限りなく正しくだ。

自分と物事の距離。その位置を正確に測る物差しを全ての人が持っている。けれど人によってその物差しの精密さが異なる。メモリが不揃いで大胆な人もいれば、細かく区切られているものもある。

できるだけその距離感を正しく掴もうと努めてきた気がする。自分と物事の間に住む何かを、その感情や感覚をを知りたかったからだ。

景色、音、人、風のさざめき、よくある匂い。そんな全てに私との距離間があって、物差しで測ることができる。僕は多くの人が逃してしまいそうなところも計ろうと努めてきた気がする。

それがおそらく芸術性だとかセンスだとか、文学だとかに繋がるのだと思う。

例えば、写真や絵は世界を切り取る。それらは切り取った世界と自分との距離についてより深く考える機会を与えてくれる。ずっと、永遠に近くまで。それが写真や絵の最大の良さだと思う。

音楽は目に見えない世界を切り取る。ひとが思い浮かべる抽象的な考えと自分との距離間をダイレクトに測れる。それが音楽の魅力なのだと思う。

そうした絵や写真、音楽などのメディアに惹かれ続けるのは、自分という物差しを使って知る新しい感覚に出会うためなのだと思う。

人とは違う感覚を持つということ。ある人が気づかないその距離間を測れる物差しを持っている人。それはそれぞれが持っている。それがいわゆる個性というものなのだろう。



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