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肯定であふれた虚しい三十路の世界で。

いつからだろうか。何を話しても、友人から肯定の言葉しか返ってこなくなったのは。かたちの定まりきっていない感情をやっとの思いで言葉にしても「それでいいんじゃない?」「わかる、そうだよね」という類の言葉しか聞こえない。そして自分はというと、相手の感情がわからないと感じることが増えた。ライフステージの違いからか、30歳はそんな年頃なのか。

学校という箱の中で感情を剥き出しにできた10代。新卒という枠組みで共感しあえた20代前半。ある程度大きな枠組みで仕切られていた世界から、以降は人の数だけ人生が分岐していく。家庭、子供、仕事、親。さまざまな要素が複雑に絡み合い、境遇の違いから共感の頻度は減っていく。

「最近どんな曲聞いてるの?」1歳の子供を抱える友人夫婦が遊びに来てくれたときのこと。旦那に子供をまかせ、束の間の自由を満喫してほしいと思って何気なく聞いたのだが、すぐ後悔することに。子供が生まれたらたいていの親は100%子供中心の生活になる。もちろん毎日聞いているのはいないいないばあで流れている曲だ。

「子供の曲しか聞いてないからなぁ。」と言葉を濁す友人との間に、見えない溝がくっきりと見えた。仕事や男、家族の話で馬鹿みたい盛り上がっていたあの頃が懐かしい。子供がいなくて、その大変さを理解できなくてごめんねと、心のなかで謝りつつ虚しさがこみ上げた。

境遇の違いが虚しさを生んでいるわけではない。どんな背景を持っていても大人のお付き合いは「肯定」が前提になっている。日本の風潮なのか、利口な人付き合いを身に付けた結果なのか。返ってくる言葉が予測できる会話に、その虚しさに、無性に堪えられなくなるときがある。

生身の人間との会話にリアルがあるはずなのに、その感情に触れられない。限りなく摩擦係数の低い薄い氷の上を滑りつづけるような感覚。いつからか生々しい感情をもとめて、映画や小説の世界に没入するようになっていた。少し前に観た映画「劇場」では主人公のクズ男と自分が重なり、何度も涙がこぼれていた。

これからもいくつもの肯定の言葉を並べて人生はつづいていくのだろう。何度虚しくなろうとも、言葉や表情の裏に流れる感情を汲みとることをやめてはいけないと言い聞かせながら。

「人と飲んでると酒がすすんで楽しいね」昨夜、職場の先輩夫婦を招いた飲み会で、幸せそうに酔っ払いながら主人は言った。世界はそれほど虚しいものではないのかもしれない。わたしとは何もかもが対照的なこの人を眺めながらそう思った。

身体弱ヨワ系のみなさんの、お力になれますように。