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京都の高瀬舟

ここ数日、京都の高瀬舟の図面を書いている。造船の予定はないが、この船について知識を蓄え、図面を用意し、いつでも作れるように準備はしておきたい。

高瀬川

高瀬舟は京都高瀬川で使われた物資輸送用の舟である。森鴎外の小説の題名にもなっているし、実際に話の舞台は京都だ。高瀬川というのは北は二条と三条の間くらいから、南は宇治川まで、鴨川の西側を流れている浅くて小さな川。高瀬川の水は鴨川から引かれている。木屋町の川といえばピンと来る人も多いだろう。
この高瀬川という名前だけど、「高瀬舟」が往来する川だから「高瀬川」というのは、京都の人なら常識なんだろうか。私は数年前まで知らなかった。高瀬川で使われた舟だから高瀬舟なのではなく、高瀬舟を通すための川だから高瀬川なのです。そして、高瀬舟は日本のあちこちで使われていた。

高瀬川を立案し、開削したのは角倉了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))という江戸時代初期の人。土木、特に運河や河川舟運計画の天才と言って良いのだろう。
この角倉さんが、たまたま今の岡山あたりを通りがかった時に、吉井川という川で、高瀬舟があれやこれやを運んでいる様を見て、「京都でも舟運あってもええなあ」というところから高瀬川は始まった、ということだ。
と、ここまで知った風に書いてきましたが、すべて石田孝喜著「京都 高瀬川」に書いてあります。興味のあるかたは読んでみてほしい。京都なら各区の市立図書館に蔵書されているし、古書でもそれほど手に入れるのは難しくないようだ。
高瀬川の歴史から高瀬舟の記録まで詳細に書かれている。

この本によると、高瀬川の舟運が京都のまちを作ったといって良いほどだ。運ばれた物資は生食品や生活必需品にとどまらず寺社仏閣の建築材料にまで及んでいた。

ところで、現在高瀬川は東九条あたりまでは鴨川の西側を流れている。そして下流では鴨川東側に現れる。私はたまに伏見あたり新高瀬川の護岸を通るのだが、この鴨川の西を流れていたのがいつの間にか東を流れている流路になんだか納得いってなかったのだ。(流路の位置は高瀬川も新高瀬川も、当初の高瀬川からは少し変更されている)
高瀬川は東九条で鴨川を横断していた。横断する際、荷を積んだ舟が鴨川に流されるということもあったらしい。下の地図は明治25年と現在の地図を重ねたもの。赤線が当時の高瀬川。近代京都オーバーレイマップより。

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高瀬舟の設計図

この本の中には、著者により古文書に記された寸法に基づき作成された高瀬舟の図面が掲載されている。自分自身が図面を制作するにあたって参照する寸法も著者の図面と同じである。
実は自分は、現在、木屋町通の一之船入付近に設置されている高瀬舟の制作当時の図面も持っている(この図面は平成24年作成)。
じゃあなぜ自分で作図するのかというと、自分で作図すると、その船の構造、というか、設計思想が見えて来る。
描いた。そして見えた。

▪️高瀬舟は、急流で使う舟であったようで、名前の高瀬もそれを意味するようだ。艤装もほとんどない、ほとんど箱みたいな舟で軽そうである。急流下りのような、流れに乗りつつも櫂や竿で方向を変えるなんて使い方にはいいのかも知れない。本当に箱みたい。

▪️肝心の、船首部船底の反り上がりの詳細は不明。石田孝喜著「京都 高瀬川」にある「元木型(木型)」を参考にしてみたが、この読み解きで合っているのかわからない。この木型は今どこにあるのだろう。こういった木型は一見粗末な木の板にしか見えないが、暗号のように大事な情報が記されている。もし身の周りにそんなものがあって、自分には必要がないのだったら郷土資料館や博物館に相談するべきだ。本当に本当に大事な資料だから。

▪️ところで、京都の高瀬舟の古い写真資料を見ても、自分が描いた図面ほど船首が上がってないように見える。高瀬川は急流じゃないし、船首がそんなに反り上がってないほうが良い!ということで、時代が下るにつれ設計を変えたという可能性もあったかも知れない。

図面はこうなった。

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下が立面図、上が平面を半分にしたもの。十五石船の寸法にならった。寸法の根拠は「高瀬覚書 舟寸法 淀川」による。「高瀬覚書」は1813年に記した、ということだ。書いた人は当時の船大工。

石田孝喜氏の図面と少し違う結果になった。これは、上の「高瀬覚書」には船梁(ふなばり 下の図の赤丸)の間隔が記されていないため。自分は「高瀬覚書」の十石船の図を参考に配置したのち、自分の造船の経験から妥当と思われる位置に変更した。中央船梁から船首側船梁の間隔を広く取ったが、物を積むことを考えるとこうなった。また、船底の反り上がり起点で形が変化する場所なのでこの位置が構造的にも妥当なように思う。

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使い勝手は?

「和漢船用集」の高瀬舟は下の絵のとおり。ほとんど木箱。
「和漢船用集」の高瀬舟は京都のものを指してるわけではなく、一般的に高瀬舟と呼ばれる舟の解説なので、大きさや形が違うのはおかしなことでない。むしろ船首両側に穿たれた二つの穴が、京都の高瀬舟にも残されているのが興味深い。

和漢船用集クロップ

今回作図した高瀬舟は、物資の運搬用。高瀬川の両側から人力で曳いたわけだが、喫水を計算してみよう。この舟を使うにあたり高瀬川の水深はどれくらい必要なのか。
船体に使用する木材の重量は面倒なので考えない。これくらい大きければかなりの浮力だろうから、無視する。

ソフトウェア上で底面積を測ると有効面積が18~19平方メートルだ。
この船は十五石。一石=100升=180kg。十五石積みなので15×180kg=2700kg。
2.7t=2.7立方メートルの排水があればいい。
2.7÷0.18=15→喫水15cm
2.7÷0.19=14.2→喫水約14cm

船体自体の重量を勘案しても20cmの喫水があれば余裕。

ということで、高瀬川はとても浅い川だが、往時でもそんなに水深は必要なかったのだろう。現在の高瀬川を見て、あの水深で舟運なんて無理だろうと思われる人もいるのではないだろうか。

図面には表現していないが、船底(シキ)をオオナカ(最も幅の広いところ)で六分(約1.8cm)上げるという記述も残っているようだ。スキーのキャンバーのような感じ。この全長に対してわずか1.8cmの湾曲がどのように働くのか、その効果はわからないが、わざわざそうしたのだから何か理由があるのだろう。とても興味深い。実際に作って、曳いて検証してみたいところだ。極端に表現すると、下の図の黄色の一点鎖線のようになる。

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今回は十五石の高瀬舟の図面を描いてみたが、船首の反り上がりを記した「元木型」や他の記述によると、十石積みなど異なる大きさの船があったようだ。
積載量の異なる船でも、幅は変えずに長さ方向で調節したはずだ。米俵のサイズは変えられない(積荷の寸法は変わらない。積載方法も変えたくない)。また川幅は当然変えられない。

高瀬舟がある風景

高瀬舟のことを調べるにつれ、今とは違う町なみを思うようになった。
高瀬舟で運んだ品物の荷下ろしをするためにたくさんの舟入り(小さな港)が京都のまちなかにあったようだし、舟入りには生簀があって、食べるための川魚を飼っていたようだ。
正月には三条、四条あたりから高瀬舟にたくさんの人が乗って川を下り、伏見稲荷へ初詣へ出かけたとも。

そういった景色が今も残っていたら、風情があったろうなと思う。
自分が暮らす生活空間や観光資源としても魅力的だったんじゃないかと思う。

これからは、残すことで何が起きるかを想像することをしてみるべきじゃないかな。これは、懐古趣味じゃなくて未来の豊かさでもあると思う。
舟入りは今は一の舟入りしか残っていないが、他にも残っていたらいい使い方も出来ただろう。
今の京都には運河は必要ないかもしれないが、観光や遊びではもっと水辺は使えると思う。
伏見稲荷あたりの疎水も魅力的だと思う。流れてるだけでもいいけど、なんか出来ないかなと思う。

実を言うと、この高瀬舟は構造があまりにそっけない舟なので、今まではそれほど作りたいと思ったことがないけど、この調査で作りたくなってきた。
図面に起こしながら想像の中で一回作ってしまったので、現実でも作れると思う。

いつか作りたいものだ。


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出典など

見出し画像:『都名所図会 6巻, 拾遺4巻』(京都大学附属図書館所蔵)を改変

高瀬舟の絵:『和漢舩用集 12巻』(京都大学附属図書館所蔵)を改変
和漢舩用集 12巻について、簡単に説明すると、江戸時代に書かれた日本と中国の船の辞典。
あちこちの図書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。

地図:近代京都オーバーレイマップ

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この記事は
*新型コロナウイルス感染症の影響に伴う京都市文化芸術活動緊急奨励金
を受けた調査報告の一環として執筆しています。

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