消えた財閥 その足跡を追って

歴史の表舞台から消えた渡辺財閥

 東洋経済オンラインに寄稿した”大船、「ハリウッド」になり損ねた鉄道の要衝”では、東海道本線横須賀線根岸線が交差する鉄道の要衝地として急発展する大船の足跡をたどった。

 大船駅は、帝都・東京と古都・鎌倉、軍港・横須賀という2大重要拠点の結節点。それだけに、鉄道の利用者は多く、発展を牽引した。

 大船駅の発展史をたどる上で、その種をまいたのは渡辺財閥の総帥である9代目・渡辺治右衛門だ。渡辺財閥は昭和金融恐慌によって、財閥の柱でもあった東京渡辺銀行が破綻した。

 この銀行が破綻したことにより、歴史の表舞台から退場を余儀なくされる。帝都・東京では三菱三井と並び、明治期には栄華を誇った渡辺財閥だが、その後をたどることは難しい。

 しかも、渡辺財閥の足跡をたどる作業で厄介なのが、渡辺財閥は明治期に弟の福三郎が独立したことだ。福三郎は横浜で商売を開始し、次々と成功を収めていく。こうして、渡辺財閥は東京と横浜の二頭体制になる。

 東京渡辺銀行が破綻した際、横浜の渡辺家も莫大な財を築いていた。横浜の渡辺家は財閥を名乗っていなかったようだが、その財力は横浜財界にも轟いている。それは、横浜渡辺財閥と形容しても差し支えないレベルだった。

 大船田園都市計画では、東京渡辺財閥が多くの資金を供出し計画も主導していた。しかし、横浜渡辺財閥も大船田園都市には関わっている。とはいえ、横浜渡辺財閥に関しては資料がほとんど残ってなく、その全容をつかむことは困難を極める。

 東京渡辺財閥が歴史の表舞台から退場した後も、横浜渡辺財閥はしぶとく生き残った。横浜渡辺財閥を興した渡辺福三郎の娘を娶った渡辺三郎(旧姓・大河原)は、もともと実業家ではない。

 だが、その見識を活かして日本特殊鋼を興した。合資会社としてスタートした日本特殊鋼は、1937年に株式会社に改組。株式会社化したのが東京渡辺財閥の破綻後だから、これは横浜渡辺財閥の支援によるものだろう。

謎めいた根津財閥 

 東京渡辺財閥が開発した住宅地といえば、東京・荒川区の日暮里渡辺町が真っ先に思いつく。日暮里渡辺町は秋田藩佐竹家の抱屋敷地を渡辺財閥が買収したものだが、日暮里渡辺町の開発では東武鉄道の総帥でもある根津嘉一郎も協力している。

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