【連載第5回 みんなの公園】集会場としての公園と監視の窓
現代にも残る監視の窓
1873年に明治新政府による太政官布達が出されて、東京には浅草公園・上野公園・深川公園・芝公園・飛鳥山公園という5つの公園が誕生した。
これら5つの公園は江戸時代から寺社境内地もしくは花見の場として幕府が整備しており、明治期以前からとして町人に利用されていた。いわば、公園として認定される前から、公園的な役割を果たしていた。
江戸時代は町人たちが集うオープンスペースに、政治的な集会の場という役割はなかった。明治新政府が発足し、建前上は誰もが自由に政治的な発言ができるようになったことで、公園は集会場という役割を帯びてくる。
お上にとって、庶民が集まって政治的な議論を交わすことは好ましくない。政治的な議論は、お上批判へと流れやすい。お上批判を放置したら、それが大きなうねりとなって暴動へと発展する可能性もある。人が集まって政治的な議論することは、暴動の萌芽でもある。
為政者にとって、暴動の芽は小さなうちに摘んでおきたい。とはいえ、言論の自由を阻害するような行動を政府が取れば、明治新政府を倒す運動が起きてしまうだろう。
戊辰戦争という混乱はあったものの、250年にわたる長期政権の徳川幕府から明治新政府はスムーズに政権を奪取した。新体制が整っていないうちに、新たな混乱を生みたくない。
そうした事情から、政治的な集まりは黙認される。その一方、政府もぬかりはなかった。
為政者にコントロールされる市民たち
太政官布達によって公園を整備した背景には、公園を気軽に”集まれる場”へと変えた。それまで政治集会は、小料理屋などの人目につかない場で開かれていた。政府が公園という場所を用意したことで、集会は公園で開かれるようになる。
小料理屋に比べて、公園は大人数が集まりやすい。また、費用もかからない、。集会を開く側にとってもメリットがあった。公園の入り口付近には交番が設置されて、反政府運動に対して目を光らせた。
公園の開設は、集会場を巧みに公園へと誘導するという裏の意図もあった。公園開設で集会場を誘導することができるようになり、当局は政治的な動きを監視しやくなった。
為政者は、市民運動に理解を示していたわけではない。自分たちの意のままにコントロールしようとして、公園を開設したに過ぎない。
そうした監視の窓でもある交番は、現在でも受け継がれている。上野公園や日比谷公園の入り口には、不自然な位置にとも思える場所に交番がある。
上野公園入り口の交番は、監視の窓としての名残
これは公園で開かれる集会を監視するという役割があった明治から脈々と受け継がれた公園思想だ。この頃に造られた大きな公園の隅には、必ずと言っていいほど交番が設置されている。
デモのスタート地点にされる現代の公園
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