空港線には裏面史がたくさん隠れている

10年の歳月を経て、日の目を見た踏切写真

 東洋経済オンラインに寄稿した“「いだてん」羽田運動場と蒲蒲線の数奇な運命”では、穴守線として整備された現在の空港線の歩みをたどった。

 記事に使った写真は、2010年に箱根駅伝を撮影するために足を運んだ京急蒲田駅の近くだ。空港線は立体交差化を進めており、この踏切はすでに存在しない。この踏切で、箱根駅伝のランナーが待ちぼうけさせられることもあったが、それも過去の光景になった。

 この京急蒲田駅の踏切の写真を撮った前年、私は踏切の本『踏切天国』(秀和システム)を出版。そのときは、箱根登山鉄道小涌谷駅近くの踏切を「ランナーが足止めされる踏切」と紹介して載せた。そして、次の年は京急蒲田駅の踏切を撮ろうと思っていた。だから、この京急蒲田駅の踏切写真は本には収録されていない。続編が出せるなら――という思いから撮影していたが、その続編は出ずに今に至っている。

 お蔵入りしていた写真が、時を経て再び日の目を見るとは思ってもいなかった。なにげない写真ではあるものの、10年の時を経て貴重なお宝写真に姿を変えた。写真とは記録であるから、歳月を経れば希少価値が高まるのは理解している。それでも、まさか10年後に役に立つとは思ってもいなかった。

繰り返し書いても好評 ハネダエアベースの話

 記事中でも触れているが、進駐軍はハネダエアベースを接収しただけではなく、穴守線も接収した。そして、穴守線は1435ミリメートル軌間から1067ミリメートルに改軌させられて、蒲田駅まで線路を延伸。東京駅から蒲田駅を経由して羽田空港へと乗り換えなしで移動できる、現在構想中の蒲蒲線のような路線を強行させた。

 進駐軍による蒲蒲線の話は、京急の歴史を紹介した本では当たり前のように出てくる。また、京急の歴史を書いてほしいという原稿依頼がくると、必ずと言っていいほど盛り込む。それだけに有名な話だから退屈するかもなぁと思っていたら、ことのほか読者の反応はよかった。

 進駐軍が蒲蒲線のような列車を走らせていた一方、日本人はその列車に乗車できなかった。接収が解除された後、京急は穴守線を再び延伸させて、空港のアクセス路線として活用していく。

 成田空港が開港してからは、羽田は国内線・成田は国際線という棲み分けが生まれる。しかし、成田は都心部から遠いので、電車で移動すると1時間以上を要することも珍しくない。

 台湾や韓国・中国といった東アジア諸国は、飛行機でも3~4時間。それなのに国内移動で1時間も費やしてしまうのは、いかがなものか?という意見も出て、中国・韓国・台湾といった東アジア諸国は羽田から発着するようになる。次第に一部のアメリカ便なども羽田空港から発着するようになって、羽田=国内、成田=国際という構図は崩れつつある。

 また、LCCの国内線が成田発着なのも、この構図を見事に崩壊させている一因でもある。

中国と台湾が、同じ空港を使うのは問題あり?

 中国・台湾・韓国といった東アジア諸国はフライト時間が3~4時間。対して、空港までの移動が1時間もかかるようでは――という意見から、羽田の国際線就航が進んだと書いたが、それはあくまでも建前。実のところ、羽田の国際線開放は、中華人民共和国(中国)と中華民国(台湾)という、2国間に配慮した結果でもあった。

 中国は、あくまでも台湾は中国の一部と主張して、2つの中国を認めない。一方、台湾は自分たちこそが正当な中華民国であるとの主張を譲らない。そうした2国間の争いから、中国と台湾の飛行機が同じ空港に乗り入れるのはヤバいのではないかという空気が広まる。中国と台湾の飛行機を別々の空港で発着させて、2国間を刺激しないような裏の意図があった。というより、中国の意向を汲んだ、という逸話もある。

 いまや、中国と台湾どちらも羽田・成田を使用しているだけではなく、中部国際空港や関西国際空港などでも機体を並べる。それどころか、中国―台湾間を飛ぶ便さえ存在する。仮に、中国と台湾が同じ空港を使用するのは問題があるという配慮から空港を別々にしたのなら、それは忖度しすぎなのではないか?という気がしなくもない。過剰な配慮にも感じるが、日本はそれほど中国との国交回復を優先していたということだろうか? 

激戦地化した羽田空港と門前町の蒲田

 中国と台湾の対立はひとまずおくとして、天皇皇后が海外に出かけるときも、総理大臣が外遊に出る際にも、渡航先は関係なく原則的に羽田空港が使われる。これは、成田が遠いという理由もあるが、なによりも長距離移動は沿道警備の負担が大きいという事情による。また、成田空港を使うと警視庁のほか千葉県警も動員しなければならない。

 総理大臣は羽田空港を使うため、過激派のターゲットにもなりやすい。佐藤栄作総理大臣は、安保が盛んな頃に東南アジアへと外遊に出かけようとした。その際、過激派は羽田空港へのアクセス路線である空港線を攻撃した。

 後日、今度は訪米で羽田空港を使うが、このときに過激派は駅や線路には火炎瓶が投げつけて攻撃。京急蒲田駅は火の手に包まれる。こうした過激派と総理大臣との攻防はその後も続く。

 後に東京都知事を務める猪瀬直樹がリーダーを務める信州大学全共闘は、訪米阻止を掲げて蒲田駅界隈で機動隊との小競り合いが起こした。佐藤栄作総理大臣の訪米は予定通りにおこなわれたが、この訪米阻止の失敗がターンイングポイントになり、その後の学生運動は萎んでいく。

 羽田空港の警備は原則的に警視庁の動員だけで済ます。そんな事情から、首脳級は羽田空港を使う。そうした警備上の事情をまったくすっ飛ばして来日したのが、トランプ大統領だった。トランプ大統領は羽田でも成田でもなく、アメリカ軍基地として使用されている横田から入国。アメリカの大統領という権限を使い、我が国・日本の地を踏んだ。進駐軍とも並ぶ、強行さといえるだろう。

 

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