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恋愛小説、書けません。/Lesson20:「スランプ」

 父と母の恋物語。兄の結婚。山崎の告白。そして絢乃の初恋――。
 この二週間で起きた出来事を頭の中で反芻はんすうするのだが、正直掃除をしていない部屋のようにゴチャゴチャとしている。常に理路整然としていないと気が済まない耀介の性格上、このような状態は生まれて初めてであり、辛いものだった。

 書く事が辛いのではなく、書けないことが辛い。文筆業をやっていく上で、一番苦しくて辛いことだ。
 学生の頃は勉学もそうだったが、両立させると心に誓って書いてきた。木下に痛烈な批評を食らうこともしばしばだった。それでも「俺はそれでも書きたい」というハングリー精神が旺盛だったと、耀介は自身を振り返る。
 デビュー作はそれこそ「若さ」も手伝った、現代社会に殴り込みをかけるような、一人の青年の旅立ちを描いたもので、運良く新人賞を受賞した。
 『失った朝』を書いた時は、爆発衝動と違う「心に澱みなく流れ続けていたもの」を言葉で表現した。書いている時は心穏やかに、丁寧に丁寧に扱った。そして今回の青木賞だ。

 何が足りないのだろうか、と耀介は考える。
 それは恐らく経験だけじゃない「何か」……。それさえ分かれば、ここまで恋愛に疎く恋愛と無縁の生活を送っていた男が、恋愛に触れて何も感じないことはないはずだ。
 父の熱い恋物語のような、情熱的な作品が読者に受けるのだろうか。しかし今までの伊田滝登の作風とは余りにも違い過ぎる。文芸書と言うよりはライトノベルで売り出した方が、若年層に受けるだろうと考える。しかし青木賞受賞後第一弾をライトノベルにするのは、木下がきっと拒否するだろう。
 人の心に訴える、そんな作品を……。いよいよ耀介は「スランプの世界」に堕ちて行った。

 世間のどれだけの人が「伊田滝登」を求めているのか。
 気が付けば耀介はいつもの書店にいた。今日は恋愛小説を買いに来た訳ではない。冷静に自分がいる「世界」を見つめ直したくなったのだ。

 ――私が、君の作品の最初のファンだからだよ。

 木下の言葉が耀介の頭の中をよぎって行く。

 『大好評につき重版です! ベストセラー小説「失った朝」』

 伊田滝登コーナーで、耀介は自分と向き合う。自分のようで自分のように思えない、目の前の世界に立ちくらみを起こしそうになる。書店にいる客が熱心に耀介の、否、伊田滝登の小説を立ち読みしている。レジに持っていく姿も見られる。
 耀介はきびすを返した。これ以上、自分と向き合えない。余りにも残酷な現実を突き付けられているようにしか思えなかったからだ。

 自宅に戻ると、まるで何かを振り払うかのように風呂に入った。洗い流して、気持ちをさっぱりしたら何かが見えるかもしれない。無理矢理擦った肌は赤くなり、若干の痛みを伴う。その痛みこそが耀介の「現実」なのだと、また項垂うなだれる。

「俺はどうしたらいいのだ?」

 シャワー音に掻き消されそうな声が、バスルームに響く。とにかくここから脱出しないと、俺は二度と前へ進めないかもしれないと、風呂上がりのラフな格好のままパソコンデスクに向かう。生乾きの髪の毛から、滴が落ちる。落ちた滴が耀介のノートに落ち、インクを滲ませる。

 急激な感情の変化に、ただただ耀介は戸惑うだけであらがう事も出来ぬまま。そして疲れが容赦無く襲う。重力に勝てず、耀介は堕ちて行く。どこまでも。


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