見出し画像

空気がなくなる日

 人生で初めて舞台に上がったのは、小学校4、5年生の頃の学芸会でした。
(と言っても、役者になったわけでなく、普通のサラリーマンになりました)
「空気がなくなる日」(作:岩倉政治)という学校の教材として広く使われていた児童向け小説を舞台化したもので、『地球に彗星が接近する日に、5分間だけ空気がなるという流言飛語による、ある村のドタバタ』を描いた作品です。
 この流言飛語を信じた校長先生や県庁の役人から話が始まりますが、私はその校長先生を演じました。
何か言うたびに
「我が輩の学んだ学問によるとだな」
という枕詞をつけて発言する嫌みなインテリの役でしたが、紙製の付け髭が落ちて、爆笑を取るという私らしさも発揮できた初舞台でした。

 さて、日本には四季があり、季節の移り変わりという感覚が日本人にはしみ込んでいます。
 歌謡曲ではないですが、
重いコートを脱いで、長袖のシャツに心地よい風を感じ、強い日差しをTシャツに受け止め、肌寒さにニットを羽織る
 ということを楽しんでいます。
 ところが、この衣服とは別に、今、私たちが着用しているものがあります。マスクです。マスクは、風邪をひいた時、花粉症の時、そして、インフルエンザの予防などで着用していましたが、このコロナ禍での着用は、今までとは異なります。
 季節の移ろいの中で、長袖から半袖、そして、上着を羽織るという私たちの感覚では、自然と「マスクがなくなる日」が来ると感じているはずですが、その日が、全く見えていないのです。

 SF作品などで、地球の空気が汚染され、外出時はガスマスクをつけなければならないという設定がありますが、ニューノーマルと言われる生活様式では、SF作品のように、永遠とマスクを着用しなければならないのかもしれません。
 私の演じた校長先生のように「我が輩が学んだ学問によると、マスクは、日常生活の全てのシーンで着用しなければならない」と唱える学者も出て来る可能性もあります。
 反面、衣装を着替えるように「マスクがなくなる日」を自らが決め、着用しない人々がこの夏には出てくるような予感もあります。

 ニューノーマルの生活様式で「マスク着用が当たり前」となった時、いろいろなことが社会に起きるでしょう。
 例えば、恋愛における出会いにおいて、今までは相手の顔の全てを見る事ができましたが、顔の半分しか見る事ができません。また、隠し続けていると、顔の下半分を見せることに羞恥の感情がおこり、逆に言えば、相手の裸を想像するように、顔の下半分を見たいという欲求が非常に高まるかもれません。そういった前提を経て、相思相愛になり、初めてのキスで、初めて相手に顔の下半分を見る。そこには新しい喜びが生まれるかもしれません。
 などというドタバタが生まれる前に、みんなが自然に「マスクがなくなる日」を迎えられたら良いかと思います。

#エッセイ #新型コロナウイルス #マスク #つぶやき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?