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人間は言葉によってのみ知覚できる

部屋の壁に架けられた、太い筆文字の「格言」。私の心の中にも、いくつもの格言が飾られているが、その内のひとつを今日改めて痛感したので紹介したい。

本当の自由な発想というものは存在しない。なぜなら人間は言葉によってしか物事を考えられないから。

これは、高校の国語の先生が仰った言葉だ。

若くはないが年寄りではなく、しかし白髪混じりで人生の苦労を感じさせる風貌だった。当時の自分は「突然教科書に無いことを話し始めてどうしたんだ」くらいにしか思わなかったが、10年ほど経ってこの言葉があらゆる場面で顔を覗かせることとなる。

今日はボイトレ。今日も最高だった。

レッスンの中で、先生は言葉を使う。生徒も使う。当たり前だ。但しここでは「日常会話」ではなく、教える作業においての話。

例えば、姿勢を正すのに「良い姿勢で」と教えても、各々のイメージする良い姿勢になってしまい、実際の「良い姿勢」には一生辿りつかないなんてこともあるかもしれない。ここで「天井から一本の糸で吊るされているように」と伝えると、生徒は顎を引いて骨盤を立ててくれるだろう。

発声の仕方を伝えるのにも色んな表現が使われる。「抜けないように」「エアー感を出して」また、聞き慣れない体の部位や専門用語も多く存在する。声帯ですら、声帯という言葉を知らなければ、声がどこから出てくるのかも分からないだろう。(多くの人は「口」と答えるだろう。)

今日、ある曲のAメロを「軽く歌う」という表現を、正確ではないニュアンスで認識していたことが分かった。「ヘッドボイス」という専門用語を体で理解することができてたどり着いた気づきである。

先生の表現する「軽く歌う」は、私の中では「ヘッドボイスの芯を残して普通に歌う」感覚だった。これまでは軽さを意識しすぎてかえって芯が無くなってしまって、サビを「ヘッドボイス」で歌うにはギャップがありすぎる発声になっていた。

先の例の「良い姿勢」のように、ヘッドボイスを理解できなければ「軽く歌う」ことが一生できなかったかもしれない。この気づきのおかげで、ボルダリングのように次のホールドに指を掛けることができた。

体のほとんどは目に見えない。声帯は見えないどころかとても小さく繊細な部位だ。だからこそ、動きを知覚するための言葉が重要になってくる。耳で先生の発声と自分の発声を比べることはできても、言葉が無ければ闇雲なモノマネになってしまう。大事なのは出てきた声が似てるかどうかではなく、自分の声で良い発声ができているかどうかだ。体の使い方を真似するためには言葉が不可欠なのである。名無しの感情ならぬ名無しの感覚である。

感覚に名前をつけ、正確に伝えるのは難しい。ほぼ無理だと思う。違う体を持っているし、育ってきた環境が違うから。私はセロリ好きです。この伝わらなさを乗り越えるために、様々な言葉を使って多角的に説明をする。話し手も聞き手も、持っている言葉が多ければ多いほど、正確に伝わる確率は上がる。

世の中のすれ違いのほとんどは無知によるものだと思う。スムーズなコミュニケーションのために必要なものはつまるところ「勉強」なのだ。言葉を増やそう。

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