ざらついた言葉:年始のノート

「お前は歌集を出す人間だ」

もう短歌をやめていくんだろうなあと思っていた冬の終わり、友人のその言葉は重く響いて、短歌を無意識にやめていくことを、私はやめた。
2年間ほど背中を向けていた短歌に、少しだけ向き直った2022年だった。


「好きなことを続けていれば落とし所が見えてきますよ」

そういうことを言い、それを実践し、証明する同年代が増えた。
彼らは、パッションさえあれば自ずと道は開ける、と言ったりする。
パッション、私から最も遠く思われるものの一つ。


「最近の若い人って仕事を選ぶんですね」

自分の限度を超える仕事量と責任を恐れて、ある指示に対して口ごもったとき、上司はそう言った。
少し気が遠くなりながら、そりゃ選ぶだろ、と思った。
じゃあ今の仕事を選び取ったとき、私がどれだけ主体的だったかと問えば、そこでも私はまた口ごもる。


「あんたが大切にしたいものは何なの」

恋人と喧嘩をしながら、何度この言葉を口にしただろう。
義務に忙殺される恋人の輪郭は、徐々にぼやけて見えるようになった。
溺れそうな人への正しい手の差し出し方を、私も溺れかけながら探している。


「診断されてから、私は一度も絶望していないの」

秋に大きな病が見つかって、病院で年を越した伯母は、さっき電話でそう言っていた。
治癒祈願に贈った御札をセロファンテープで病室に貼ってくれた彼女は、どうにか病院食を断って唐揚げをたらふく食べる手立てを模索している。
さらには、積読していた大量の雑誌を持ち込んで、読み終えたものを病院の古紙コーナーにどんどん捨て、家にいなくても可能な断捨離を発案していた。

連綿として、なのに唐突で、理不尽で、滑稽で、自由な日々だ。
型にはまれないくせに、突出することも、継続することも苦手だ。
これまでに出会った友人たち、恋人、家族、そして新たに出会った先輩や同僚に支えられて、なんとか越した年だった。
彼らの言葉や姿が滑り止めになって、心はどうにか持ちこたえている。

臆病なつまみ食いから見えてくることもあると、いつか笑えるだろう。
それまでには1年どころではなく、長い時間が必要だろうけれど。

#note書き初め

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