シェア
アキレス腱
2023年7月12日 14:34
テヒョンは千葉までのドライブを楽しんだ。初めて乗るポルシェは座り心地が良かったし、敦子は運転が上手だったし、彼女の会話は年上だからと言ってテヒョンに気遣いしすぎることもなく横柄になることもなくとても自然体で、お互いに終始笑顔でいられるような雰囲気が車内に満ちた。車窓から見える景色は目的地に近づくにつれ少しずつ穏やかになり、まだ浅い陽の光は新緑からこぼれるようにキラキラと輝いている。テヒョンはこのと
2023年2月22日 17:32
日曜の夜に美咲は酔っ払ってテヒョンの家にやってきた。テヒョンはもうベッドにいたから突然の来客に驚き、しかもそれが美咲だと知って脱力した。「お酒飲んだら会いたくなっちゃった〜」としなを作りベッドに寝転ぶ美咲にテヒョンは冷たい視線を向けた。「明日用事あるって言ったろ」テヒョンは苛立ちを隠さず吐き捨てるように言ったが、美咲はなおも上機嫌な様子で寝転びながらストールを外しコートを脱ぎ、腕を背中に回
2023年2月8日 14:07
第二章 日常の向こう側早朝、テヒョンは寝巻きの上に革ジャンを羽織りベランダに出て一服した。朝焼けはパステル色でどこか春らしさを感じさせるものの、空気はまだ冷たく、吐いた煙は春風と共にすーっと流れて消えていく。一本吸い終える頃には冷え切ってしまった素足は温もりを欲して、テヒョンは部屋に入るや否やまた布団の中に潜り込んだ。「もー、吸ってすぐ布団入らないでよー」まだ半分寝ているような声で美咲
2023年2月6日 16:14
二人分のミルクセーキがなくなると小さなテーブルを挟んで二人が向かい合い続ける理由はなくなり、敦子は腕時計を確認すると「私、そろそろ」と鞄を手に取った。テーブルの横でコートを着る敦子を店員はしばらく見上げていたが、すぐに「僕も」と立ち上がり敦子の後についた。外はもう雨が降り始めていて、空から真っ直ぐに数えきれない雫が糸を引くように落ちている。「わぁ、雨だぁ」店員の言い方はまるで雨を喜んで
2023年2月3日 13:44
ページをめくろうとした時、敦子は人の気配と共に視界の先に男の手を見つけた。長く、一本一本形の良い指が木目のテーブルの上に、まるで綺麗に整列しているように見えた。コンマ数秒くらいの差であろうが、敦子は一瞬その指に見惚れて、それからその指の持ち主を確かめるように上を見上げた。「やっぱりだ、女優さん」くしゃっと自分に笑いかけるその人が誰か、敦子はすぐには理解できなかった。「女優さん」という言葉を
2023年2月1日 15:09
敦子は帰宅するとすぐに子供部屋ですやすや眠る息子二人を確認し、家政婦を帰し、シャワーを浴びた。このところ肌が老いてきたことを自覚しつつある彼女だったが、その夜はいつもと比べ肌が瑞々しく艶があって、これはもしかすると自転車で若い男に触れていたからかもしれない、と一人鏡の前で笑った。彼の身体にしがみついていた時の感触はまだ手や腕や頬に残っていた。細身だが密度のある筋肉が感じられる若々しい身体で、当然、
2023年1月30日 13:49
バレエ公演が終わると敦子の夫は知人とワインの美味しい店に向かい、敦子は会場前で夫らと別れた。公演中から少し頭痛があったのと、夫たちの横文字の多い高尚な会話に耐えられるほどには元気がなかったからである。夜の街を一人で歩くのは思えば久しぶりだった。街には人混みがあって若々しい空気が溢れていた。敦子はなんとなく学生時代を思い出して、イヤホンでバレエ音楽とは程遠い当時のヒット曲を聴いた。自分の持ち物も
2023年1月27日 14:05
序この物語の主人公、村崎敦子さんに出会ったのは2019年の12月、大韓航空の機内だった。ソウル行きの飛行機で私の隣にやって来た彼女は質の良いコートを羽織り背筋がピンと伸びていて、コートを脱ぐとシンプルなグレーのカシミアニットに趣味のいいアクセサリーと赤みの強いリップが丁度良い調和をもたらしていた。要するに、彼女は見るからに素敵な「現役」の女で、私は率直に自分の隣席がくたびれたおばさんではなく彼