大泣きおわり(復職日記31)

昨日はこんな感じだった。



今朝から、涙がぴたっと止まった。
ほろほろ、と泣いてしまう瞬間もあったけれど、それはやさしいコメントを読んだからで、昨日のギャン泣きとは違った。


本当は今日も仕事なのだけれど、お休みした。


涙が収まって尚、頭の中で自分を責める言葉が止まない。止められなくて、ソファの上で布団にくるまっていると、同居人氏1や同居人氏2が、おーい、どうだい、どんな塩梅だい、と次々に訪れてくれる。


わたしは、うぅ、とか、ぐぅ、とか言いながら、言葉にならない呻き声で返す。


自分のことを責めても仕方ないからね、と同居人氏1に言われて、こくんとうなづく。
気を紛らわせる方法を試したらいいよ、と同居人氏2に言われて、こくんとうなづく。


同居人氏2は仕事へ、同居人氏1は在宅勤務へ、わたしはソファの上で、頭の中の呪詛とたたかう。



もうお前なんかいなくなれ、の声は、なかなかに、厳しい。小さなわたしが言っているんじゃない。大人のわたしが言っている。だから厄介だ。もうお前なんかいなくなれ、って言われても、どうしたらいいかわからないよ、と思う。ただまたその言葉に傷ついて、ぎゅっと布団に丸まるしかできなかった。


でも午後、同居人氏1が作ってくれたケチャップライスを食べて、とかげちゃん(我が家には5匹のとかげちゃんがいるのです)と一緒に日光浴をしていたら、なんだか、落ち着いてきた。



とかげちゃんたちは、日光浴だよ、と1人ずつケージから出されて、窓辺のクッションに鎮座する。
同時に出しちゃうとケンカになってしまうので、1人ずつ、順番こに出す。


ぼんやり陽を浴びている子もいれば、出されるや否やエサの入ってる箱(覚えていることに驚く)、に直行する子もいて、なんだか不思議だなあと思う。


この子たちも、わたしのこと、お、今日もまたこいつ家にいるな、とか思ってるのかなあと、考えながら彼らを撫でる。多分なんとも思ってないし、多分顔すら覚えてるかどうか、あやしい。とかげちゃんは、ドライなのだ。でもそれがいい。それでいいと思う。


こうやって外に出してあげなければ、ケージの中で、もぞもぞしたり、ぼんやりしたり、口を開けたりしているとかげちゃんたちは、ただ本当に、「生きている」という姿そのものだ。


自分がもぬけの殻で、もうお前なんかいなくなれ、と自分で自分に言っているとき、とかげちゃんたちを見ると、生きてるだけでいいって、こういうことを言うはずなのに、わたしは何を考えて、自分を苦しめているんだろうなあ、と思う。


多分、開き直れない部分が、あるのだ。



もっとできる、ちゃんとできる、ちゃんと信頼される人になりたい、病気でも迷惑かけたくないと思って、そうでない自分に対して開き直れないのだ。


この人は障害者雇用だから、人手としてノーカウント、居ても居なくても変わらない、と、思われてしまうのが、かなしいのだ。


だから休むと罪悪感で苦しくなって、でも行けなくて、情けなくて、信頼されたいのにできない、わたしほんとうはちゃんとできますと言いたいのにやっていることがちぐはぐ、に、なってしまうのだと思う。



お昼、ケチャップライスを一緒に食べながら、同居人氏1に聞いてみた。


3ヶ月に一度くらい、ばたばたと休むほど調子が悪くなる人、って、開き直ればいいのかな。


すると、同居人氏1は、


3ヶ月に一度とか、月に何度とか決めないで、調子が悪くなることがあって、休むことがある人、って、開き直れればいいんじゃない?


と言った。



調子が悪くなることがあって、休むことがある人。それ以上でも、それ以下でもない、ってこと。


迷惑をかける勇気を持つこと。
ちゃんとその迷惑に対して誠実に謝ること。
行ける日は丁寧に仕事すること。
辞めないこと。



これが今の自分が向かうべき方向なのかなあと、思った。



とかげちゃんたちは日光に満足してソファの下に隠れてしまった(暑かったみたい)。
今度はわたしが日干しされる番。
うすいカーテン越しの日差しを浴びながら、遠くなった頭の呪詛を思う。



もうお前なんかいなくなれ、って、言わなくていいよ。言われなくてもわかってる。大丈夫。だからいなくなれ、って言うかわりに、割とよくやってるよ、って、言ってみてほしい。
大人のわたしへ。小さなわたしからの、お願いです。



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