復職日記32


我が家のいいところは、公園が近いことだ。


それはちいさなちいさな公園で、田舎育ちのわたしからしたら、これは公園と呼ぶのですか?と言うような、猫の額をちょっと大きくしたくらいの場所なのだけれども、キャッチボールできるスペースもあるし、ベンチも砂場もあるし、唯一遊具としてブランコがあって、大きな樹も生えている。


最初は、こんなところで誰が遊ぶんだろう、と思っていたけれど、それが、ここにみんな遊びに来るのです。


午前中は、近所の保育園の子どもたちが、先生に連れられてやってくる。
こんな「何もない」と大人のわたしが思ってしまう場所でも、こどもたちは毎日大騒ぎだ。

10分に1回は誰かが泣いてるし、あちらこちらで、せんせえ、せんせえ、と保育士さんを呼ぶ声があがるので、保育士さんって本当に偉大だなあと思う。


午後になればなったで、学校を終えた小学生たちが続々と集まってくる。
自転車をのりつけて、ブランコしたり、鬼ごっこしたり、ゲームしたり、とにかく彼らもちいさな公園をめいいっぱい使って遊ぶ。


びっくりするくらい大きな声を出す子もいて、ここでエネルギーを発散させているんだなあ、ご家庭でこの子たちを育てている保護者の方は本当に偉大だなあ、と、ここでも思う。


今は、お昼の時間なので、公園は静かだ。
誰の声もせず、鳥の鳴き声と、樹々が揺れる音だけが聞こえる。


たぶん、近くの工事現場のおじさんたちが、思い思いにベンチでお弁当を食べていると思う。



そんな公園が、我が家の近くには、ある。



色んな人が集まってはたわむれ、離れて、また集まってはたわむれ、離れて、各々の場所へ帰ってゆく。


わたしは、調子の悪い日も調子の良い日も、その音を聞いている。人が生きている音を、聞いている。


今日は、公園の音がまっすぐ自分に届くから、たぶん大泣きしていた自分も落ち着いて、自分なんかいなくなれ、の自分も落ち着いて、やっと、ここに居ていいんだ、と思えるようになったんだと思う。


調子の悪いときは、公園の音すらも、こどもの声すらもつらくて、というかうらやましくて、どうして自分はこうなんだと、責めて止まない声が頭の中を駆け巡るから。


今日は、そんな声は聞こえない。
ただ、公園からもれてくる人々の「生活」の音を、「日々の営み」の音を、まっすぐ受け止められるこころが、ある。


明日は仕事だ。
たぶんもう大丈夫。
ちいさな利用者さんに会えるかな。
一般の利用者さんのお手伝いができるかな。


同居人氏1が、またもおいしいお昼ごはんを作ってくれている。
今日はパスタなんだそう。
いい匂いがする。
いい匂いと思える自分がいる。


こうやって、ダメなときは休んで、大丈夫になったら、働きに行こう。
ちゃんと迷惑をかけたこと謝って、丁寧に、働こう。



それがいまの、わたしなのだから。
わたしができることは、それくらいなのだから。

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