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日記7

隣のマンションに住む、よく泣いている男の子。
この連休中も、よく泣いているけど、笑い声もたくさん聞こえる。

お父さんに対しても、お母さんに対しても、同じように泣いて、笑って、している。
それはとてもとても健全なことだなあと思って、あの子にとってこのゴールデンウィークが、良いものであるといいなあと、こっそり思っている。


たぶん、こだわりのつよい子なんだと思う。思う通りにならないみたいで、よく泣いている。でも、この数日は、それと同じくらい、笑っている。よかったなあと、思う。


わたしはといえば、この2日ばかりどうにも動けなくて、のんびりしていた。
昨日は久しぶりに突然大泣きして、同居人氏1に背中をさすってもらった。


何があったというわけじゃないのに、だんだん動けなくなって、さみしくなって、大泣きした。
不安だから、というよりも、なんだか、ただただ、さみしかった。
さみしくて、涙が止まらなかった。


何がさみしいんだろう、と思う。
同居人氏たちが居てくれるのに、どうしてさみしいんだろう、と思う。
理由はわからない。
書き連ねようと思えば書けるのかもしれないけれど、掴もうとすると指からほどけて、するりと抜け出てしまう。
そういう類の、さみしさ。
それが昨日の夕方、涙になって、あらわれた。


ままならないからだ。ままならない、こころ。どちらもわたしで、だからこそ、さみしい。
こんなはずじゃなかった、と、これでよかった、が入り混じる感じ。
ままならないなあ、うまくいかないなあ、さみしいなあ、という気持ちだった。


でも、今、わたしには、泣いたら受け止めてくれる人がふたりもいる。
ありがたいことだ。
だから以前よりうんと素直に泣けるようになった。
こどものときより泣いているかもしれない。
わんわん声をあげて泣けるようになったのは、ほんとうについ最近だ。
こどものころのわたし、うんと小さいときはきっと、声をあげて泣いていたけれど、気づいたら、声を押し殺して泣くようになっていた。
よく、怒って泣いていた。
それはたぶん、さみしかったから、泣いていた。
さみしくて泣くのは、今と変わらないけれど、泣き方は、今のほうがのびのびとしている。
受け止めてもらえるってわかっているから、涙を迎えに行っている感じが、する。
泣きたい気がする、じゃあ、ちゃんと泣こうと、思えている気がする。


こころの素直な動きを感じられるようになったのかな。
これが「やすむ」ってことなのかな。
そんなことをこの2日は考えていた。


同居人氏1がお休みなのもあと2日。
噂によると、明日からは天気が崩れるらしい。
明日のわたしは、どんなこころだろう。
もし泣きたかったら、泣いたらいいよと、声をかけてあげよう。


泣いていいよ。
もう泣いて、いいんだよ。

投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい