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いつか、何かの役に立てば

ピカソは、死後に評価されたらしい。

僕はそんな最先端を走りすぎたコンテンツを作ってる訳じゃない。

というか、ただ日常を垂れ流してるだけ。

だけど、いつか評価されたらいいかな、ぐらいの気持ちでブログを続けることにした。


昔はブロガーになりたい若者だった。
友人にブログで稼いで生活している者たちがそこそこ居たのも影響した。

それから数年して、ライターになりたいと思って、ブログを再開した。
クラウドソーシングで記事を書くことは、できなかった。

そして今、またブログを書いている。いや、今もという表現が正しいか。

もう、夢は持ってない。
言霊なんぞ、知らん。
別に叶わなくても良いんだから。

ただ、只管に発信という発散をする。
今自分が求めているのは、それだけ。


良い発想も、悪い考えも。
嬉しい出来事も、悲しい予感も。

全てが自分で、どれも自分でない。
自分が一つの感情や観念でできていると、いつの間にか錯覚していた。

一貫性を悉く無視した、編集しないままの自分の言葉を呟き続けることに意味はないだろう。

誰かが見出さない限り。
そして、それは自分の役目ではない。


将来、自分が見直した時に、何を思うのだろうか。

誰かが見た時に、どう捉えるのだろうか。

その疑問が気持ち悪くて、こうなるように書こう、ああ思われるように著そう。

自分でコントロールしようとしてきた。

その行為に、どれだけの可能性が潜んでいるのだろうか。おそらく、ほぼない。
自分が現象に干渉できるのは、良くて半分。
そして、その半分がゼロなら、自分の行動もゼロで終わる。

なら、自分以外の人に、任せれば良い。
内でなく、外の影響を受けやすい形にした方がいい。

影響されやすい形というのは、整ってない、儘を出すことではないか、と思う。


だから、評価されないのも当たり前。
評価されたとしても、案外当たり前。

それぐらい緩い方が、結果ブレないから。

では。


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