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退職エントリ

 8年間お世話になった会社から飛び降りた。


 少しだけ昔の話をしようと思う
2011年震災の日。私は万世橋付近でその揺れを感じていた。近くのビルがぐわんぐわん揺れ、橋の下の川が逆流をし渦を巻いていたのをよく覚えている。

 この頃私は小さな会社をやっていた。

 これについてはこの辺りでも読んで欲しい。なんせ会社を辞めしまったので収入なんてある訳がない。買ってくれれば明日買うパン代くらいにはなるのでぜひ買ってください。助けてください。

 当時私は中野坂上に住んでいたが交通機関は当然死んでおり、日の暮れる頃には自転車屋の自転車は全台完売していた。(日本で1番自転車が売れた日なんじゃないだろうか。)

 とにかく家に帰らなければならなかった。幸いにも都営新宿線が早めに復旧してくれた。岩本町まで長蛇の列に並び、新宿で下車するとこれまた街を彷徨う人々に並んで中野坂上方面へと歩いた。
 家に着くと冷蔵庫の上に置いていた卵のパックがすぐ横の壁に叩きつけられお亡くなりになっていた。それほどすごい揺れだったのだ。卵1パック以外大きなダメージがなかったのだから良しとするしかない。壁や床を拭くと湯船に水を溜めた。余震に備えガスの元栓を締めるとすぐに自転車に跨り職場へと向かった。信号機は機能しておらず、交差点で警察官が交通整理を行っている姿が印象的だった。

 職場に着くとアルバイトを含め全員が集まっていた。元々近くに住んでいると言うものあるが、全員無頼の者たちだ。帰る必要はないし、会社には苦労した時代の炊飯器、コンロ、ガス、鍋、大量のブレンド米があり暫くは食うのに困らない、なにより一人ではいたくない、という気持ちが誰しもにあったのだと思う。

私たちの仕事は決して途絶えてはならない仕事だった。
エンターキーを押すことは我々の血液を流すことと同義だった。

 その日から私は会社に住むことになった。携帯電話が使えないのにメールが送れる、というのも不自然だろう、と言うことで会社にある様々な機種を利用してはメールの発着確認を行っていった。私たち顧客は全国各地にいた。もちろん最大の被災地にも。
 突然連絡がとれなくなってしまった人もいた。運営として顧客のアクセスログを見ることができたのだ。きっとそういうことなんだろう。

 それでも私たちは働いた。それが私たちの生命線だったから。

 誰が持ってきたのか会社にはいつしかテレビが置かれるようになった。枝野氏が疲れた顔で話をしている。原発の屋根が吹き飛ぶ画像が何度も流れる。うんざりだった。津波が攫ったあとの土地が映し出された。うんざりだった。家もなにもかもなくなっていた。うんざりだった。そのうち被災地に仮設住宅ができた。この頃には東京も落ち着いてはいたが買い占め問題、疎開者への偏見。うんざりだった。ちょうどその頃「都内にいてもセシウムが怖い」とエンジニアが熊本に疎開してしまった。Skype会議をしていた記憶がある。本当にうんざりだった。

 テレビに映る仮設住宅の人達は大変な苦労をされていた。とにかく安心出来る家を求めていた。その頃の会社はというと顧客のマインドか変化し、また情報ツールとしてのTwitterの有能さから皆そちらに流れ始めていた。それもそうだ。いつまだ大震災が起こるかもわからない状態で会えない人間と心の繋がりを維持するなんて無茶な話だ。潮時かも知れない。私たちは社会を通して会社を畳むことをぼんやりと考えていた。

 人は思い悩むと自らの故郷に帰ろうとするのかも知れない。

 会社に住み始めて4ヶ月、私は少しばかり休暇を貰い、今まで会えていなかった友人に会い、お互いの無事を喜び合い、その後ふらりと母校へ立ち寄った。高校生の頃、私は100人ほどが所属する部活に出入りしていたこともあり、後輩、先輩、同級生…、それなりに人付き合いの幅は広く表面的には明るかった。しかし、世間を斜に構えて見ているようなお子様だったので、授業がだるい時、寝坊した時、帰りたくない時。そんなときはだいたい図書室で過ごしていた。
 当時、図書室にはクリスチャンのおばあちゃん書士先生と、まだ若い書士先生がいた。この人とは話があった。彼女は私の知らない物語を教えてくれた。私が後に進んだ心理学への理解、興味のあった哲学にも明るかった。私たちは仲が良かったのだ。

 ふらふらと図書室の扉を開けると、そこには当時と変わらず書士先生がいた。
「あら、久しぶりね。今日はどうしたのかしら?」
 あの頃と変わらない雰囲気で迎えてくれた日のことはよく覚えている。色々な物事に疲れ、何もかもを辞めてしまおう。終わりにしてしまおうと考えていたからなのかもしれない。
 私たちはそこから2時間ばかり会話をした。
卒業をしてからの私、進学してからの私、今の私、これからの私。
そう、私は悩んでいた。これからの私をまだ見つけていなかったのだ。
私はこれからどうしたらいい?本を読めば分かるのだろうか?そんな問いをした気がする。先生は少し考えてからそれならこれを読んでみなさい、と2冊の本を紹介してくれた。
1冊は僕たちの前途、という起業に関する本だった。

 当時すでに起業をしていたけれど、人に褒められる仕事をしていなかった私としては恥ずかしい思いで読み進めた。
(まったくの偶然なのだが、私は大学入学前にこの本に登場する青木氏が発案したかものはしプロジェクトに参加し、カンボジアまで行っていた。発想が違いすぎてこの章を読んでいる間も恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。)

そしてもう1冊は若者たちに「住まい」を!、という本だった。

 今の私がいるのははっきり言ってこの本を紹介してくれた書士先生のおかげだ。特に若者たちに「住まい」を!は衝撃だった。当時の私は周りの人達よりも裕福だったらしい。生活が荒れくれていたので貯金と言う概念はあまりなかったけれど、エンターキーを叩けば500円が出てくることを考えたら当たり前だ。

 その本は若者たちがいわゆるワーキングプア、という部類になりつつあり、賃貸すら借りられない、しかし日本にはこれだけ空き家がある、なぜか?という内容だった。

 連日テレビに映る仮設住宅で過ごす人々、家に帰りたいと涙を流す人達、そんな風景を見ていたこともあったからだろう。私は素直に「人という生き物は帰る場所を求めるのか」と考えた。
 私は家の他に職場に暮らし、暖かければ外で寝るし、酒を飲んでは友人の家に押し込み、寒ければ誰かのぬくもりを求め転がり込むような生活を送っていたのでその気付きは凄まじいものだった。同時にお金の匂いにも敏感だった。
なるほど、衣食住はなくならないけれど、特別、住宅に関しては上がるだろう、そんな当たりをつけた。

 そしてDODAの河本さんという親身にお話を聞いてくれる女性から「この会社の何がすごいって離職率が低いんです!ここにしましょう!」という勧めのまま採用試験を受け、4回くらい面接をし、10人の役員面接が終わり、転がり込んだのがとある不動産会社であった。
(後から知ることだが離職率が低いことは良いことばかりではなく、椅子に座ったまま臀の腐った人間も多いのだな、と言うことだった)

 ともかく初めて会社員というものになった。毎月の給料を心配しなくても勝手に振り込まれる。1日15時間働かなくても良い。責任は会社が背負ってくれる。天国かと思った。

 そんなわけで私は不動産屋になった。右も左も分からないまま、とにかく不動産屋になった。当時、私には教育担当がつかなかった。なんでも前年の新卒の育て方を間違ったらしく、中途だし放っておこうということになったらしい。おかげて私は誰にも懐かず、他社仲介に「顧客が買いたいらしんですけど、御社に連れてけばいいんですか?え?買い付け?ないです。御社に行けばあるんですか?え?違う。すいません、よく分からないんで1から説明してください。」なんてことを言う始末だった。

 誰かに懐くことは無かったけれど、目の前の席に座る威圧感しかないthe不動産屋のような風体の立山さんにだけは色々と学ばせていただいた。

 最初に彼は私に言った。
「宅建は?ない?なら取れ。あれは人権だ。お前殺すぞ。」と。

 なぜ殺されなきゃならないのか分からなかったけど会社員をやったことがない私は素直に「じゃあとります」とチラシを撒く振りをして晴れた日は荒川の土手で、雨の日は谷中のデニーズや熊野前のサイゼリアに居座り、休みの日はパチンコを打ちながらテキストをみて1発でとった。

 これで立山さんに殺されなくて済むようになった。
その頃のボスはM大出身のエリートで「あんなの取れて当たり前ですよ」と褒めてはくれなかった。少しだけ寂しかった記憶がある。

 それからの日々はがむしゃらだった。

 どうしたら楽に稼げるのか?あのハゲ(立山さん)はなぜあんなに顧客から信頼されるのか。私の方が熱意は上なんじゃないだろうか。しかし知識では勝てない…悔しい。そんな日々だ。

 私は決して優秀な人間ではなかった。何もしなくても給料はもらえるのだ。勝手もわからずとにかくチラシを撒いていたけれど、一向に成果は上がらない。3ヶ月ほど媒介タコが続いたある日、私は原付に跨りながら尾久駅近くで電車を眺めながらタバコを吸っていた。サボっていたのだ。

 するとそこに一括査定サイトから反響メールが飛んできた。

 山手線、駅徒歩5分、借地のマンションだった。一括査定というのは精度が低い。本当にお金にならない。辟易していた。正直もう少し楽に媒介も契約もできると考えていた私は想像と現実のギャップに苦しんでいた。

 青空の下でタバコを吹かしながら反響を眺めていた時、閃いた。
先輩たちの真似をしたり、専門的な言葉を使ってみたり、当時の私は自分らしさなんてものは持ち合わせておらず、人の真似ばかりしていた。知識も無いくせに。
 私の前職はキャラクター作りだ。いろんな人の真似をして、キャラクターを作ってみてもダメだったのだ。ならば話せたら、会うことができたらその場の雰囲気で行ってしまおう、と考えた。

 電話に出た方は年配の女性でよく喋る人で、初めから打ち解けられそうだけれど、壁がありそうな、そんな人だった。初めから各社を呼ぶつもりだったらしく査定に呼んで貰えることとなった。

 査定に行くとまず犬が飛び出してきた。驚くことに私が昔買っていた犬にそっくりだった。名前を呼ぶとワン!と鳴く。なんだお前、こんな所にいたのか。と抱き上げた私は廊下の先にいる売主さんに向かって「あ、すいません、この子死んじゃったうちの子に似てて…抱っこしながらでもいいですか?お部屋拝見させてください。」と犬を抱えたまま査定をし、犬を抱えたまま一通りの話をした。動物を飼っている人というのは二通りいて、愛玩として飼っている人、一人の家族として飼っている人が多い。売主さんは後者だったことがお部屋を見てわかったので売買の話は少しにして、ひたすら犬の話をしていた。

 売主さんは「お前みたいな営業もいるんだな。気に入ったよ任せる。ただし私は〇〇の新築を買っているから1ヶ月で売って!」と、媒介を出してくれたのだ。初めての専任媒介だった。
 その時、芽生えたのはこんな雰囲気でも私を信頼してくれる人がいるのか、という感情。そして、この気持ちに気が付かせてくれたこの人に報いなければ、という気持ちだ。

 夏の暑い日だった。私は周りのマンション、戸建、構わず毎日500枚、住宅地図を片手に撒けていないところはないか、隙間なくポスティングをした。そしてチラシからヒットしたのは結婚したてのご夫婦で物件を大変気に入ってくれた。借地の説明をした際に「なるほど、土地シェアですね!買います!」と言っていたのが印象的だった。
 かくして、私は初めての両手売買を決めた。私の会社は取引後、顧客アンケートを送っている。そこで初めて表彰された。
顧客(売主さん)からのアンケート返信の内容はこうだった。

頼りない新人かと思えば、家族のように親身になる優しさ、私の部屋から表通りが見えますが、峰さんが暑い中一軒一軒にポスティングをしている姿を拝見し、営業は足で稼ぐという気持ちを改めて思い起こさせてくれました。この度はありがとうございました。」というものだった。

 そう、見られていたのだ。全く気が付かなかった。
恥ずかしい気持ちもあるけれど、正しいことをしていれば、見ている人は見ている、という気持ちが私の中に沸き起こった。

 表彰されたことにより、私の名前が少しだけ広まった。他のセンターの先輩に物件確認をした際など「お前が峰か!」と言われることも増えた。なるほと、名前が売れると仕事がしやすいのだな。仕事がしやすくなるのならもっと名前を広めてみよう。そんな気持ちになったのだ。

 教育担当のつかなかった私はめちゃくちゃだった。毎週チラシは3000枚、暇があればピンポン、下町ということもあり、なんやかんやと話を聞いてくれる町工場の社長もいた。

 ある日飛び込んだ会社の社長は「まぁ飲めよ」と冷たいコーヒーをくれた。暑い日だった。飲み干した私をみると「うめぇか?うめぇよなぁ。俺も昔得意先で出されたカステラ食ってあぁうめえ、こんなにうめぇ食べ物は初めてだ!って思ったもんだ。訪問先で出る1杯のお茶、一個のお菓子、そんなものがたまらなくうめぇと思える時間てあるよな!おぅ!」とこんな具合の人だった。

 面白い人だったし奥様にも可愛がっていただき、腹が減ったら社長のところでサンドイッチをいただき、アポがなければやはり社長のところで暇を潰させてもらっていた。

 そんなある日、社長の会社は倒産することになる。

 初めて法人の債権回収のために売却を進める仕事をしたのがこの会社だった。銀行の債権者会議に出席し、いくらで売れるんだ、もう買い付けは出ています。その金額ではダメだ。じゃあどうしろってんだよ。なんてやりとりが懐かしい。思い返してみれば計画的な倒産で、使いやすい駒として動かされたのかもしれない、と思うけれど経験を積ませてもらった恩や、奥様が作ってくれたサンドイッチの味を思い出すと残念ながら憎めない。

 私はこの仕事の後、埼玉方面へ移動となった。
先に行っていた部長に呼び寄せられ、やってやれと背中を押された。当時のボスにも「所内の数字はほぼ1人の営業マンが作っている感じなんだよね。だから若い峰ちゃんががっつり下から突き上げたらみんな頑張るんじゃないかな。頑張ってくれるかな?」と発破をかけられた。

 私は私の立場を理解した。

 私が数字を上げ、所内をかき混ぜて、みんなを焦らせること。やります、できます、がんばります、と叫んだその頃から何かがおかしくなっていった。当時のNo.1営業は入社十数年、一度たりともタコったことがないスーパー営業マンだった。彼はえらく私を気に入ってくれた。

 曰く、根性がある。動きが分からない。「なんでそんな買い付けが出るの?物上げはどうしてるの?チラシの内容は?客先でどんな話してるの?」そんな質問の日々だった。彼はスーパー営業マンだ。何も学ぶことなんてないだろう、と思っていたけれどそんなことはなかった。
 彼もまた悩んでいたのだ。凄い営業マンだけど、本当に営業マンなのだ。血は通っているけれど、基本的に焼畑農業的なところがあり、時には顧客から売らされた、と思われかねない取引もあった。数字は最高だった。ただ、顧客からの紹介はゼロだった。彼は私の中に何かを見出し、私も彼をよく観察し足りないものを学んで行った。しかし、他の所員と同様の話をすることは少なかった。

 その後彼は昇進してボスになった。

 しかし、歳下のボスというのを気に食わない人がいた。出来ない自分を恥じるのが先ではないのか、と私は思ったのだけれど、こんな人間もいるのかと受け止めた。この頃はただ忙しく、単純にあまり所員に興味がなかった。悪い人たちではないけれど、別に一緒に仕事しなくてもいいかな、という感じであった。この頃から驕りが出ていたのかもしれない。

 そうして私の立場が大変になった。ボスがやっていたエリアを全て引き継いだのだ。「絶対に2000万プレーヤーになれ」それがボスから私への司令だった。私は彼の全てを引き継ぎ、数字の名のもとに奮闘した。

 数字以外にも司令もあった。従わない所員、数字の上がらない所員の営業スタイルを変える、というもの。私は私の営業が全てだとは思ってもいなかったけれど、手っ取り早く全体的に数字を上げるためには、数字をやっている人の方法を真似するのが一番、というのは分かる。
使っていた資料や話し方、提案の方法などを共有し、誰でも使えるように考える。同時に新卒の教育を担当し、数字にも気を配る。家に帰らない日がたまに出来るくらいには忙しかった。
「辛いと思うけど、一緒に変えていけるように助けて欲しい。」そんな言葉をボスからもらったら「はい、やります。」というくらいには会社員をやっていたのだ…。

ようやくになるけれど、少しだけ私の仕事を話そうと思う。

私たちの会社は基本的な反響営業だった。
会社が査定サイトに多額の資金を払うことで、確度の低い依頼を沢山くれる。そんなものを片っ端から電話、手紙、訪問などで売主にアタックをかけ媒介を貰う。それをリクルートのサイトにこれまた多額の費用をかけて掲載し、買主からの反響を貰い成約に繋げる。こんな感じだ。

どこの仲介も基本的にはこのスタイルだ。もちろんここにチラシやDMが入ってくる。こういう仕事は入口から競争なのだ。
プラウドの査定に三井が行っても顧客は媒介を出したいとはあまり思わないと思う。分譲主の野村様が来たらそりゃ野村様に任せるだろう。
連絡が早ければ早いほど良いという人もいる。大○友様が他社より500万円も高い査定書を出したらそちらになびく人もいる。競争なのだ。

私は配属されたエリアの地場業者、信金、弁護士、税理士、こんなところにひたすら通っていた。物件資料を山ほどコピーして、時には菓子折を買い、お茶を飲み、話をし、その中で出てきた案件は会社には告げず死ぬ気で形を作り、買い付けと媒介を一緒にボスに叩きつける。こんな感じだ。
そもそもインターネットの怪しい片隅にいた私はネットを信じていない。だからネット反響もあまり信用していなかった。

お金をかけない仕事をすることが、これからは大切なのではないかと考えていた。お金をかけない反響とは紹介のことだ。
人から人へ、話がつながり売ったり買ったり、詰まるところ、これが1番楽で確実なのだ。

もちろんネット査定にも力入れていたし、研究もしていた。
次の人が現れるか分からないけれど、思い出のために作業の流れを書き留めておく。


査定の流れはこんな感じだ。
ネット反響が来る

即電話を掛けながら鑑定で資料をとる。謄本をとる

出ないなら今度は携帯からかける

繋がらないならショートメールを送る

文言はこうだ。
査定のご依頼を賜りましたネオ東京不動産の峰 不二夫(みね ふじお)と申します。ご挨拶とお礼を兼ねてお電話いたしました。後ほどEメールにて改めてご連絡差し上げます。宜しくお願い致します。



そして査定書を作る。
区分であれば15分、戸建、土地でも30分程度だ。
予定がなければ即届けに行く。当日、若しくは夜中に依頼したものが帰宅したら査定書が来ている、というこのスピード感は大変感激される。
たまに私よりも先に21会社の封筒が入っていたけれど、他社はまずお部屋を拝見しないと〜、なんてことを言い自社のパンフレットを恭しく封筒に入れているだけだった。
同じタイミングですでに査定書が入っているとスピード感=売却への信頼に繋がるようで取得率が高かったように思える。

iPadもよく活用していた。
欲しい資料は全てPDF化して入っており、これ一つ持っていけばその場で説明が出来る便利さ。紙媒体は郵送しておきますね、もしくは次回お持ちしますからお時間ください、で次のアポに繋げていた。
Googleマップも効果的だった。


これは私が携わった物件一覧。ちょっと気持ち悪いくらいある。
なにも全部成約したわけではない。査定依頼、案内、ご実家など、様々だけれど携わったという意味では間違いはないだろう。
これの良いところはポイントごとにメモを残せるのだ。自らのエリアであれば物件ポイントに簡単な成約坪単価を打ち込んでおけば即価格を出すことが出来るので時間があったら真似をしてみて欲しい。

 こんなことをやるのは当たり前だと思っていた。

 目の前にあるツールを活用すればするほど仕事が楽になるのだから使わない手はない。でもどうだろうか。ここまでやってくれる人は私の周りにはいなかった。それが悪いことではないのだけれど悲しかった。人はもっと働ける。時間を凝縮すればもっと成果を出せる。
 左に立ちはだかる人がいたら左エルボーで、右に立ちはだかる人がいたら右エルボーで、なぎ倒していくのが不動産査定競争だ。
たった1社しか勝ち取れない。他社に負けてはならない。

「しょうがないですよ、プラウドシリーズなんだから。野村に出ますよ。」
 そんなことを思うなら分譲時パンフレットを読み込めばいい。何ニュートンのコンクリート強度があるのか答えて見せればいい。私はただただ悲しかった。やってみせても、言って聞かせても、すでに歳を重ねた人たちには響くことは少なかった。

 誰しもがいろんな気持ちで働いているし、得手不得手があるのは知っている。もちろん、各営業マンに良いところは沢山ある。だけど、それは努力を怠って良い理由にはならない。
 組織を強くするのは人だ。マンパワーなんて時代錯誤かもしれないけれど、私はそう思っているし、実際にそのケースが多く、魅力的な人が増えればそれは必ず結果となって数字として後から付いてくる。だから魅力的な人になりたかった。魅力的な人を育てたかった。

 新人の教育も、所内の意識改革も、1人では出来ない。ボスがいたから頑張るか、という気持ちがあったけれど、ボスの異動が決まったので私は1度自分を振り返るために、半年間の休暇をもらった。

 休暇中に気がついたことだけれど、私には特殊な性癖があるようだった。他人が経験したことを経験したいという欲求だ。この取引はなんだろう。この物件はなんだろう。この重説の内容はなんだろう…。これは単純な好奇心てやつだ。経験してしまえばこの気持ちが長続きするわけではない。掘り下げて研究するわけでもない。経験出来ればそこそこ満足する。自分に自信がないから、他者が羨ましいのだ。眩しくって仕方がないのだ。経験できれば誰かと同じような気持ちになり、胸を張って前を向いて自信を持てるんじゃないか。

だから経験したことのない仕事をしたかった。

 休暇も終盤に差し掛かり復帰するかどうかのころ、人事から連絡があった。「もう少しだけ会社のために頑張ってみてはくれないだろうか」
 そうして私が配属されたのは特殊部隊だった。会社内でも存在は知っているけれど何をしているのか分からない。そんなところだ。年間数億規模の手数料を会社に収める部隊。そこが私の居場所になった。

 残念ながら大した成果を残すことなく去ってしまうわけだけれど、ここでの経験は新鮮で、仕事の考え方から物事の見方まで大変勉強になった。
 日本を飛び回りながら数々の取引を行う先輩、常に気を配りながら困難な案件でもしっかりと前に進める人、広い視野で物事をみて的確にアドバイスを投げられるボス。
 こんな人たちが会社にいたのか、という発見、何より会社のことを真剣に考えている人がこんなにいたのか、という気づきには救われた。もしかしたら私はどこかで期待することを辞めてしまい、自ら視野を狭めてしまっていたのかもしれない、驕りがあったのかも、という後悔と恥ずかしさが浮かび上がってきた。ここで働くことができて幸せだった。

 本来であれば数年留まり、もしかしたらこの先一般の営業所に対して何かしらの働きかけを行っていく予定だったのかもしれない。

本当はもっとやりたい事があった。私の為ではなく、これから入ってくる子達のために働きやすい環境、やり甲斐のある職場、査定システムの構築、案内精度の向上、広告媒体を介さないルートの構築…沢山あったんだ。留まっていればいつかこれらに手をつけられる時間が出来たはずなんだ。

 そういう未来もあったのかもしれないんだ…。

 それでも私は会社から飛び降りてしまった。社会から飛び出してしまった。完全に勢いだけで飛び降りてしまった。我慢ができなかった。人生は1回だ。このままでいいのか、という葛藤が常にあった。いつになったら人は変わるんだ、という怒りがあった。誰のために仕事をしているんだ、という悲しみがあった。だから選択をしてしまった。

色々なことを書いたけれど、もしかしたら単純に私という人間が社会不適合者だっただけなのではないだろうか、という気持ちになりいまは部屋の隅で預金通帳とにらめっこをしながら膝を抱えて震えている。
この拙い書きなぐりのように、いつだって終わりは突然訪れる。

会社組織というのは自分一人でどうなるものではなく、沢山の人が関わって生きている巨大な生き物だ。そこから飛び出すとどうなるか。巨大な生き物に食べられてしまうのだ。
 だとしても、組織の中よりももしかしたら楽しいことが出来るんじゃないか、という期待を込めて。落下の最中、巨大な生き物に捕食されるか、地面に激突するその瞬間まで、私は私の思うまま私でいれるよう生きようと思う。

 今後のことについては深くは考えずに会社の窓から飛び出してしまったのでプロ無職として過ごしていくことになってしまう。街の片隅で名刺を片手に「買わせてください!」と叫んでいるかもしれない。まだ目鼻はついていないけど、中央区に箱は用意したのでお近くにいらした際は声をかけてください。薄い珈琲をご馳走します。


 あぁ、色んな気持ちが湧き上がってくるけれど、悪くなかった。そう、私の会社員人生は悪くなかった

 また機会があればお世話になりたいものです。
 本当にありがとうございました。




追記:
引き継ぎが終わり、最後にレインズを確認する。
「ああ、よかった。もうレインズに私の名前が乗ることはないんだ。」

安堵と共に大きなしがらみから開放された私は静かに目を閉じ、大きく息を吐くと受話器を取り上げダイヤルを回した。
「お世話になっております。NEO TOKYO不動産の峰です〜。はい、あの御社で出されている物件の買取を検討していまして…」

終 2021/2/10 峰 不二夫

※この物語はフィクションです。たぶん。

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