"海外" という言葉に感じる違和感

"海外" という言葉を聞くといろいろな思いが浮かんでくる。

会社員時代、ある物品をドイツからフランスに陸上輸送するプロジェクトにかかわったことがある。そのプロジェクトの契約件名の中に「海外輸送」という用語が入っていた。ある大組織の担当者との打ち合わせの際に、ドイツとフランスは地続きなのだから、「海外」へ輸送する、という言い方はおかしくないかと聞いてみた。その担当者曰く、たしかにそうだけど、すでに幹部クラスまで承認を受けた件名だから今さら変えられないとのこと。ちらりと見せてくれた稟議書の上の方には多数の印鑑が押してあった。あの印鑑を押した人たちは誰一人として疑問に感じなかったのだろうか?

想像だが、字面の意味よりも、単純に、"海外" イコール "外国" との思い込みで言葉を使っていることが多いということなのだろう。それとは別に、このような小さなことでも、大きな組織がいったん動き出したら簡単に軌道修正ができなくなる例を見せつけられたという意味でも考えさせられた。

違和感という意味では、「海外では...」という言い方にはかなり引っかりを覚える。

もちろん、単純に "日本以外" という意味で "海外" という言い方をするのはまったく問題ない。しかし、ちょっと考えればわかるように、日本以外をすべてひとくくりにして日本と対比させるような場面や状況はそうそうあるものではない。聞きようによっては、傲慢と取られてしまう恐れもある。つまり、自分の国だけ特別で、それ以外は十把一絡げという態度につながるからだ。

言うまでもない。"海外" なんて場所もないし、そんな国もない。"海外では" といって日本以外の人たちがみな同じような顔つき、習慣や文化、行動パターンを持っているわけではない。”海外” という一言でわかったようなつもりになってしまうこと自体、想像力が不足していることの表れになると思う。

これも全くの想像だが、"海外" という言葉を使っている人の頭の中では、テレビか何かの場面で見て類型化された風景、そこに住む人々の顔、習慣、風習、行動、文化などが浮かんでいるのではないか。

使い方に注意する必要のある言葉だと思う。

と偉そうなことを書きながら、コロナ禍で旅行もままならないこの状況下で、「どこか海外に行きたいなあ」と時々つぶやいているのだが。

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