ちょっとしたことなのに

いつも使っている掃除機が壊れた。「壊れた」といっても、何のことはない。掃除機のホースを本体に引っ掛けるプラスチック製のフック部分が割れてしまっただけ。掃除機本体の機能には何ら関係しない。そもそも買ってからまだあまり時間も経っていない。新品というわけではないが、寿命にはまだまだほど遠い。

しかし、こんなちょっとした部品なのに、それがなくなったことで極端に使い勝手が悪くなった。掃除するには何の問題もない。そのあと片付けるときが問題だ。本体を立てた状態で収納場所に置く作りになっているのだが、ホースを本体に引っ掛けることができない。だからホースは横の壁に立てかけたり、無理やり本体に倒れ掛からせるようにして置くことになる。気が付くとホースがだらしなく床に落ちかかろうとしている。スペースを取るし、見栄えもよくない。

それだけではない、これまでは本体の取っ手を掴めば片手でホースともども持ち上げられていたのが、両手でないと掃除機を運べなくなった。これにも結構ストレスを感じる。ほとんど毎日使うものなのに、その度にストレスが蓄積するのはかなりつらい。

当該部分の交換部品の値段をネットで調べてみた。安くても掃除機本体の価格の半分以上する。冗談ではない。それだったら安い機種が新品で一台買える。

結局、まだ踏ん切りがつかず、ストレスを感じながら使い続けることになる。いっそのこと本体の方に不具合が出てくれれば気持ちよく買い替えられるのに。

同じようなことはほかにもある。ある電化製品のボタンのプラスチックのキャップみたいなのが割れて外れてしまった。もちろん本来の機能にはまったく影響しない。まだ買ってそれほど日数も経っていない。しかたがない。そのまま押しにくい金属がむき出しボタンのまま使い続けることになる。ボタンを押すたびに指が痛い。ストレスがたまる。でもまだ買い替えることができない。

弁当箱でも同じようなことがあった。弁当箱の蓋を固定するための小さなポチが割れてしまい、蓋が固定できなくなった。1ミリ程度の小さな出っ張りだ。まだ買って間もない弁当箱なのに。しかたがない。きれいなゴムバンドを探してきて弁当箱の蓋を止めて使うことになった。やはりストレスを感じる。いっそのこと、弁当箱本体にひびでも入ってくれれば、気分良く新品に乗り換えられるのに。でもできない。

本来の機能部分が故障したり寿命でうまく働かなくなってしまったのなら諦めもつく。しかし、本質的な機能とは関係ないような部分のちょっとした不具合でこれまで通り使えなくなるのは納得がいかない。合理的に考えれば、ストレスに耐えながら使い続けるのではなく、スパッと新品に変えたほうが精神衛生上もいいのだろう。でもできない。

これはいったいどういった心理メカニズムなのだろう?

あのような枝葉末節の不具合ごときで全体をパーにしてしまうことへの抵抗感なのか?

不思議なことに、そうやって使いにくい状態で使い続けているものに限って、本来の機能の方は思いのほか長持ちしてしまう。これもいったいどういうことなのか?

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