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お父さんのお鮨屋さん22-2023/05/07

 コロナ禍がなんとか過ぎつつある2023年5月GW。あっちもこっちも4年ぶりの嵐。
 5月5日、私の子ども時代の「子どもの日」を思い出そうとしてみた。思い出そうとしないと子どもの日がどうだったか、浮かんでこない。姉妹のみだったから、五月人形も兜もわが家にはなかった。そうだ!!と思い出したのは、味噌案の柏餅を初めて味わったときの感動。びっくりするほど美味しいと思った(笑)。
 
 もうひとつ思い出すのは、母と二人だけで行った「としまえん」。
 小学校3年生頃だったか。ジェットコースターにはまり、乗りたくてしょうがなかった。だから子どもの日特権のように、ジェットコースターだけでよいから連れてってーーとせがんで「としまえん」に行き2回乗ってきた。当時、駒込駅最寄りだったから、池袋まで行き西武豊島園駅にいったはず。昨夏「としまえん」はなくなってしまった。さびしいかぎり。
 
 この二つしかないのか、私の子どもの日、、?と思っているうちに、「お父さんのお鮨屋さん」は子どもの日にしてくれたのでは?と父の思い出がふらりふら~りと現れてきた。いや毎年子どもの日だったわけじゃないし、お父さんのお鮨屋さんは、年1回よりもっと開店していたような気もする。
 
 父は自分自身が握り鮨を好きだったからだろう、握り方を覚えてきて、わが家で時折握ってくれた。鮨ネタは、記憶にあるのは西武デパートのデパ地下で買ってきた鮨ネタセット。都内在住だったが、築地で調達などという本格さはなかった。鮨飯は母がつくり、本当のお鮨屋だったらその味でどんなかわかると言われる卵焼きも母が担った(笑)。今思うと、父はただただ握りたかったのだと思う。
 
 鮨の握り方を父はどこで覚えたのか?尋ねたことがある。新橋のサラリーマン御用達のようなお鮨屋さんで覚えたらしい。父は国鉄マンだった。日々暮らしに困るようなことはなかったが、高級なお鮨屋に頻回に行くことはなかったと思う。ファストフードのお鮨屋さんで見様見真似で覚えてきたのだ。
 
 「お父さんのお鮨屋さん」は、国鉄アパートのダイニングキッチンで開店した。ダイニングキッチンって、当時の団地の間取りの主流だった。キッチンそのものにテーブルとイスが置いてある。配膳も片付けも手っ取り早かった(笑)。「お父さんのお鮨屋さん」当日、4人掛けの食卓テーブルの片側ににわか板さんの父、片側に母と姉と私の女3人がカウンター風に座った。各自の前の平皿に、にわか板さんが順番に握りを置いてくれた。美味しくておいしくて、子どもだったから加減できなくて後が大変だったこともあった。母の卵焼き以外は、何のネタがおいしかったとか、まったく記憶がないのだが、ものすごく美味しかったことは鮮烈に蘇る。
 
 家族で旅行をするとか外食するとか、そんなことがほとんどなかったあの頃、「お父さんのお鮨屋さん」の日は、ものすごい非日常だったのだと思う。昭和40年代高度経済成長期のあの時代、父が平日の晩ごはんにいることはなかった。だから余計に、父と共にできる食卓、しかも父がにわか板さんになって、母と私たち姉妹に振る舞ってくれる握り鮨、美味しくないわけがなかった。
 
 好きで覚えた握り鮨を女3人が嬉々としてパクつく姿を、父はどんな顔して眺めていたのだろう。食べることに夢中で何も憶えていない。幸せ感じていたかな。いっぱい感じていたと信じよう。私は、こんなにいっぱい幸せな時間をもらったんだと今あらためて噛みしめているよ。
 
 私は今も、握り鮨は大好物だ。書きながら、63歳握り鮨に挑戦してみたい♪と思ってしまった。料理好きなわけではないが、目の前にいる人がバクバクと美味しく食べる姿をみるのは大好きだ。ツレに握りをつくったら、ひょいパクひょいパク~と際限なく食べそうだな(笑)。
 クラウンは、なんでも楽しく実験&挑戦だ。うまく握れなくたって、「まちがっちゃったーーー」ともろ手を挙げて、また実験すればいい。父のにわか板さんを継ぎ、「にわか板さんクラウンさっちーのお鮨屋さん」をやってみようかと思う(笑)。
(表紙は、2023年5月1日クラウニングで伺った児童館で、手作り兜をかぶらせてもらった時のもの。お隣のスタッフさんが制作されたそう。とってもよくできていました。)
 

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