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栗田 尚「記憶の中で色彩を失っていた鎌倉という土地を訪ね、写真に収めながら色を取り戻していきたい」

8月16~24日に東京・銀座のCO-CO PHOTO SALONで写真展『新 僕の知らない鎌倉』を開催

栗田 尚 写真展『新 僕の知らない鎌倉』

――8月16~24日に東京・銀座のCO-CO PHOTO SALONで3回目の写真展『新 僕の知らない鎌倉』を開かれます。1回目が『僕の知らない鎌倉』、2回目が『続 僕の知らない鎌倉』でした。“僕の知らない鎌倉”というタイトルにはどんな意味が込められているんでしょう?
栗田 実はすごく私的なことなんですけれど、私が小学生の頃から、父親とその親族と、母親の間に大きな亀裂が入っていたんです。それで私は父方の祖父母に面倒を見てもらうことが増え、少年時代の多くの時間を祖父母が住んでいた鎌倉で過ごしました。でも、それは母親にとっては喜ばしいことではありませんでしたから、私が鎌倉での出来事を母に話すことはほとんどなく、全て胸の中に閉じ込めていたんです。それはつまり自分の記憶の一部を封印するようなもので、その結果、私にとって鎌倉という土地は気が付くと、よく知っているはずなのにハッキリと思い出すことができない、そんな場所になっていました。
――“僕の知らない鎌倉”とはつまり“知っていても知っていると言えなかった”、或いは“知りたくても知ることができなかった”鎌倉ということなんでしょうか?
栗田 そういう風に捉えていただいて間違っていないと思います。実際、鎌倉には良い印象もあるし楽しい思い出もあったはずなんですが、自分の意識がそういう記憶から色彩を奪っていたような気がします。

失われていた色彩が甦って

――それで何十年もの間、懐かしいはずの鎌倉を訪ねることもなかった。
栗田 そうですね。それが数年前に両親が相次いで他界したことで封印が解けたような気がして、自分にとって実は大切な場所であった鎌倉に出掛けてみる気になり、実際に足を運んでみたら、忘れていたとても大切な何かが胸の中に溢れてくるような感覚を抱いたんです。
――それが、知らずにいたと思っていたのに、実は知っていた鎌倉の記憶?
栗田 そうだと思います。鎌倉という土地には、文化人に好まれる閑静で豊かな歴史を誇る高級住宅地というブランド・イメージがあると思いますが、私の記憶ではもっと庶民的で、しかし古くからそこに住みその土地を愛してきた人たちの誇りや意識が感じられる所だったんです。人気の街ですから少年時代に比べれば当然開発もされていますが、観光地でもあるので守られた景観もあり、風景や空気には昔とあまり変わっていないと思えるところも結構残っていて、歩くほどに写真を撮るごとに、失われていた色彩が甦ってきて、この土地への愛着が深まるのを感じています。

不思議な現象に惹き付けられて

――写真を撮り始めたきっかけは何だったんでしょう?
栗田 鎌倉の祖父の影響です。祖父が高級カメラのNikon Fを持っていて風景なんかを撮っていたんです。それに同行するようになって、そのうちに私も時々カメラを借りて写真を撮るようになったんです。すると自分のカメラが欲しくなってきたものですから祖父にねだったところ13歳の誕生日に、期待したNikon Fは無理でしたが、発売されたばかりのオリンパスOM-1をプレゼントしてくれたんです。それからですね、趣味として写真を撮るようになったのは。
――カメラ仲間はいましたか?
栗田 中学の同じクラスにやはり写真の好きな同級生がいて、彼は自宅に暗室を持っていたんです。そこへ遊びに行った時に現像液に浸した印画紙に画像が浮かび上がってくるのを見てから、その不思議な現象に惹き付けられて本格的に写真にハマりました。
――初期の被写体は?
栗田 鉄道です。友だちと千葉辺りまで出掛けては、電車を撮るというよりは小旅行をした先の風景の一つとして電車を撮っていました。その頃から旅行が好きで、高校受験の時期に新宿から松本まで走る夜行列車に乗って学校の先生に「大事な時に何をしてるんだ!?」なんて怒られたことがありました(笑)。

旅に出ては写真を撮っていました

――高校に入る頃にはうっすらと進路のことを考えていたりもすると思いますが、写真で食べていこうなどという発想は?
栗田 全くありませんでした。途中視力が落ちたことで断念しましたが、高校に入った頃にはパイロットになりたいと思っていました。その後は目標がなくなって、大学に入ると中学時代からの旅好きが高じて海外へも出掛けるようになり、カメラを持って世界中を旅して、そこで撮った写真とエッセイで本を出版することが夢というか目標になっていました。
――海外は何ヵ国くらい?
栗田 グァムに始まって、メキシコ、セイシェル、コスタリカなど30ヵ国以上行きましたね。バイトで旅行代を稼いでは出掛け、戻っては働き、の繰り返しで日本に半年しかいないなんて年もありました。そんな生活ですから大学は留年してしまい、5年の時にレコード会社のCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)でバイトを募集していたのに応募して採用されました。仕事に行ってみると狭い部屋に女子大生が6人くらいいて男性は私ひとりです。居心地の悪いことと言ったらないので、仕事を片付けることに専念したのが、会社の人にはヤル気があるという風に映ったようで契約社員になり、その数ヵ月後には正社員として採用、大学は中退しました。仕事は面白かったので一生懸命勤めましたが、旅行熱も冷めていないので取れる休みは全部使って旅に出ては写真を撮っていました。

音楽プロデュースという業務に携わるように

――海外では特に中南米に引き付けられたそうですが?
栗田 中でもコスタリカにハマりました。気候的に北海道から沖縄までの幅がある日本に似た環境で、そこに全く異なる文化が根付いているところに興味を持ちました。人々は基本的にラテン系のノリで明るいんだけれど、どこかに物悲しさを漂わせていて。
――様々な異文化や歴史に触れて刺激を受けたり考えさせられたり、もちろん感動も与えられながら旅を続けていたけれど、次第に仕事が忙しくなるんですね。
栗田 そうですね、音楽プロデュースというクリエイティブな業務に携わるようになると休みも取れなくなりましたし、アーティストと共に音楽を創ることに没頭するようになり、趣味の時間は激減しました。私の場合は、俗に”ビッグ”と呼ばれるアーティストとの仕事が多く、そうしたアーティストの皆さんの、プロとしての生き様に間近で触れられたことは自分にとって宝物になっています。

飛行機や列車に乗らなくても、人は旅をしている

――それがこの数年の間で変化し、写真への熱が甦ってきた。
栗田 初めのうちは何故だか自分でもわかっていなかったんですが、結局、先ほどお話ししたように両親が亡くなったことがきっかけになったという結論に至りました。
――昨年は鎌倉を撮り続けるために都内から鎌倉市内へ転居されたんですね。
栗田 はい。一つには自分のために、記憶の中で色彩を失っていた鎌倉という土地を訪ね、写真に収めながら色を取り戻していきたい。そしてできれば、その素晴らしい土地の魅力を写真を通して多くの人に知らせていきたい、とそんな風に考えています。現在の自分の人格を形成する上での原点であるとも言える鎌倉に腰を据えて、その風景や表情や文化を写真に残すことで、私自身の失われていた何かを埋められるような気がしています。
――旅は続いているんですね?
栗田 そう、飛行機や列車に乗らなくても、人は旅をしているものなんですね。その行き着くところは見えませんが、途中の風景を写真に収めながら、今度は鮮やかな色彩と一緒に胸に焼き付けていきたいと思っています。

写真に写っているものだけではない、何かを感じていただけたら

――『僕の知らない鎌倉』『続 僕の知らない鎌倉』『新 僕の知らない鎌倉』と、ここまで『パイプのけむり』や『男はつらいよ』のようにタイトルが続いていて、この先も気になります。
栗田 タイトルだけでも気にしていただいて(笑)、さらには展示会に足を運んでいただけたら幸いというところですが、もう自分の中では鎌倉を撮ることはライフワークとして位置付けられているので、できる限りこのシリーズを継続させて、鎌倉の魅力を私なりに掘り下げながら、それを少しでも多くの方に感じ取っていただけたら嬉しいですね。
――私的な鎌倉の観光大使のようでもあります。
栗田 つまり“魅力”というのはそういうものなんだと思います。何故か強く惹き付けられて、誰かに頼まれたわけでもないのに、その素晴らしさを多くの人に知らせたくて仕方なくなってしまう。それが私にとっては鎌倉でした。
――カメラが趣味ということも大きなポイントでしたね。
栗田 そう思います。ただ住むとか風景を眺めて回るというのではなく、自分というフィルターを通して写真に収めるという手段を取れたことが、自分と鎌倉の結び付き、さらには自分という人間をよりよく知るための手掛かりになっている気がします。まぁ、自分自身に関することは全く私的なことですから、写真を観ていただく方には、鎌倉の表情、風情、色彩、たたずまいといったものから、写真に写っているものだけではない、何かを感じていただけたら幸いです。このインタビューを読んで少しでも興味を持っていただけた方はどうぞ個展にお出掛けください。お待ちしています。

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