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「定型発達」第13回-「定型発達」は「真偽」より「信義」

#発達障害#アスペルガー #ASD )当事者から見た普通の人達( #定型発達 )の不思議な特徴とその理由について書いていきます。連載。

・自分で判断がつかない事柄への対応
・「信頼できるリーダー」
・理屈は納得させるために言う?

・自分で判断がつかない事柄への対応

前回、事実より気持ちが優先するように見える言動について書きました。そのようなことはなぜ起こるのでしょう。

事実が明らかであれば、自分の気持ちがいくらそれを認めたくなくても、認めざるを得ないのが普通です。「雨が降っている」のがいくら不快でも「降っていない」と強弁するのは難しいでしょう。

しかし「明日は晴れるか」はある程度しか判断できません。なので、晴れてほしい気持ちがあれば、事実と気持ちの区別がしづらい定型発達は「晴れるだろう」という方向に予想が傾きます。
同じように、自分では判断のつかない難しい事柄に対しては、こうあってほしいという気持ちが判断を左右してしまうわけです。

・「信頼できるリーダー」

それでも、自分では判断のつかない難しいことに対しては「本当にそうだろうか?」という不安が残ります。
そういう時、定型発達は事実を突き詰めていくよりも、グループの他のメンバーの意見を採用します。その方が安心できるからです。

では、グループの他のメンバーがよくわからないときにはどうするのか?
彼らは「信頼できる誰か」を探します。
メンバーの一人が、その誰かの意見を信じて、他のメンバーに伝えると、そのグループはその意見を採用します。その誰かは、メンバーの近くにいるかも知れないし、マスメディアやネットで発言しているのかも知れません。(メンバーの一人がその地位を占める場合もあるでしょう。)

いずれにせよ、定型発達は、その意見の真偽を確かめようとするのではなく、その人物が信頼できるかどうかを考えます。というか「信頼できる感じかどうか」を考えます。
「信頼できる(感じのする)人が言っているから正しい」と彼らは考えるのです。そして、その人物を「リーダー」だと考え、その意見に従います。

・理屈は納得させるために言う?

そうした定型発達にとって、リーダーが変わるのは困惑することです。
ですから、リーダーの言うことには異を唱えたくないのでしょう。彼らは議論を好みません。議論を通じて真偽を明らかにする、ということに意義を感じないのです。

では、彼らは議論をなんだと思っているのか?
推測ですが、彼らは、「議論で相手を言い負かせば自分の主張が正しくなる」と考えている節があります。
議論に対して、彼らは好んで「理屈を言う」という表現をしますが、人が「理屈を言って」いるとき、それを相手あるいは自分自身を納得させるための行為と考えているようです。真偽よりは「納得できるか」が重視されます。

そのためか、あきらかな論理的矛盾や、別の例に置き換えればすぐにわかるような(第12回で書いたような)論理的な誤謬があっても、定型発達はあまり気にせず、何かしら「納得できる理屈」があればリーダーを信じ続けます。

それよりも、リーダーが信義にもとるような行為を行った場合、彼らはリーダーを「信頼できない」と感じ、見放します。
また、対立するグループのリーダーが行った行為に対し「信用を裏切った」「騙した」「人を利用した」などとみなし、「信頼できない人物の率いる(考えに従う)グループだから」その意見は正しくない、と考えるようです。

まとめ

定型発達は、自分(のグループ)で判断がつかない事柄について、信頼できると「感じられる」人物をリーダーと見なし、その意見に従う傾向があることについて書きました。
彼らの判断は物事の「真偽」よりリーダーへの「信義」によって左右されているように見えます。グループを大切にする定型発達らしいことなのでしょうが、リーダー次第で真偽が無視されるのはよいことではないと思います。

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注意:この文章は著者の個人的な考えによって書かれています。
「すべての」定型発達の人に当てはまるわけではありません。
発達障害には「ASD(自閉症スペクトラム。アスペルガー症候群を含む)」のほか「ADHD」および「LD」があります。ここではASDである私の視点からの記述のみを行っています。

#難しい判断 #リーダー #議論 #理屈 #真偽 #信義


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