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「そんなつもりじゃなかった。」 に対しては 「どんなつもりだったったの?」 と聞くしかない

人に自分の考えや思いを伝えるには結局言葉しかできない。

僕はそう考えている。
考えているどころか、信仰に近い気がする。

これは、高校生の頃くらいからたびたび僕に立ちふさがるテーマで、立ちふさがるのは概ね友人や恋人とうまくコミュニケーションがとれないときだと認識している。

人にのめりこめばのめりこむほど、言葉を介したコミュニケーションで僕は苦労してきた。

友人や恋人や家族など、自分が思っている以上に人に対して無頓着で、言葉に関しても曖昧で無責任だ。怒りたくないから、怒るポイントをしっかりと伝えようとすればするほど、友人も恋人も家族もそこまで何も考えおらず、ただ、「難しい人」「理屈っぽい」「すぐ怒る」などレッテルを張られるだけだった。

「何で怒るかわからないから気にして何も話せない」と言われたことがある。人をクレイジー呼ばわりしたことよりも、「気にせず話していた」という事実に僕は驚いた。

何も気にせず話をできることなんてあるのだろうか?と
少なくとも、人を不快にさせる、怒らせる、哀しませる話題や表現は避けるべきだろう。それがマナーじゃないのか?

高校生くらいにそう気が付いて愕然として以来、なるべく人と関わらないようにしていた時期もあった。

そうすると、自分の考えも相手に伝える必要もなくなるし、相手に波風立てられることもない。曖昧な表現で真意が読み取れなくても、適当に流せばいい。

とても楽だ。

ただ、曖昧な表現を聞き流し、相手の真意を知ろうとせず、相手の言葉に感情を揺れ動かされないように選択した僕は、自分自身が随分冷たい人間になったように思えた。

思い悩んで友人に心の中をぶちまけたら、友人は190センチ近くの巨体をテーブルに前のめりにして言った。

「啓介、世の中の人間はそこまで何も考えてないんや」そう言った。
その時の友人の哀しそうな顔を僕は今でも覚えている。

数年前、実の母親と話していた際に、電話をきったことと、席を立って帰ったことがある。

後から母親には謝られたが、自分でも甘えがあったことは否めない。

母親は「そんなつもりで言ったわけではない。」「つい、口から出た言葉」「悪気があったわけではない」それは理解できる。本気で言っていたのだったら齢40にして母親の人格と自分に流れる血を疑う。

僕は最低限の敬意をもって人と付き合っている。
そのつもりだ。

いきなり、電話をたたききったり、無言で席を立ったり、ましてや、いきなり感情に任せて罵詈雑言を畳み掛けるようなことはしない。

それなりに、警告をする。

「そんないいかたはないんじゃないの?」「いや、それは違うよ。」「これ以上言うと僕は不快だ」

ここまで言っても母親が続けるので1回目は「これ以上は不快だから電話を切る」といい、2回目は「不快だから帰る」と言って実家を後にした。結果として母親を数か月間苦しませることをした。

その後、実家に父親に呼ばれたときに、冷静に自分の考えを伝え、父親の考えの矛盾点を指摘したらヒートアップした父親に「帰れ」と言われたので帰った経験もある。

もう少し、はっきりと警告をしていたらそんな結果にならなかったのにというが、上記の「自分でも甘えがあったことは否めない。」という意味だ。

怒りや、哀しみなどを理由に結果として自分の考えを言葉で表すということを放棄してしまった。コミュニケーションを放棄した。

まぁ、あまりの怒りに血が上ってしまって、このままでは本気でやり込めてしまうということを避けただけだが。

反対に父親のケースでは父親が「怒り」でコミュニケーションを放棄した。

喜怒哀楽こそ、言葉で表現しなければ。と僕は思っている。
真剣に人と付き合っているならばなおさらだ。

わがままに映ることもあるのだと自分でも認識しているが、自分は喜怒哀楽がはっきりとしていると思う。しかし、この表現は正しくない、「喜怒哀楽をはっきりと表現する人間」だと思っている。

特段、「怒り」と「哀しみ」は気を付けて表現するようにしている。感情の赴くままではなく、努めて冷静に。言葉と態度で表すようにしている。

言葉だけでは本気度が伝わりにくいということと、態度だけでは理由が伝わらないからだ。

僕は男女の区別なく、また、老若男女を問わず、友人恋人、家族など大切な人には敬意を払い、将来的にもその人たちと付き合っていきたいというならば、僕は遠慮なく同じ口調で言う。

年上だろうが、子どもだろうが、男だろうが、女だろうが、「不快だ」「哀しい」という。

僕は、こういうことに腹が立つ、こういうことは嫌だ。こういうことは不快だ。こういうことは哀しい。

人を不快にしておいてそれに気が付かない。
人を哀しませておいてそれに気が付かない。
悪気はなかった。
そんなつもりでなかった。

そう簡単に言える人に少なくとも僕の周りにいる人はなってほしくない。
がっかりしたくない、

怒った人が悪いのか?怒らせた人が悪いのか?

僕は、怒らせた人が圧倒的に悪いと考えている。
だからといって、感情に任せて怒っていいと言っているわけでもない。

自分の思惑と違うところで相手を不快にさせたのだったら、それは自分の伝達能力の不足だ。わかってもらえるように説明するべきだし、不足を謝るべきだし、何より、感情を逆なでしたことを謝るべきだ。

僕は怒っている、不快だ、という感情をもったときはあえてきつめの言葉でいうことを選択している。理由はその方がわかりやすいから。単純明快だ。
もちろん、感情に任せてヒートアップしてつい言葉に出てしまうこともあるが、それは稀だ。

自分の考えを相手に正確に伝えるには結局言葉でしかない。

「悪気はなかった」「そんなつもりじゃなかった」と言われたら、どうしても、「じゃあどういうつもりでいったの?」と聞かずにはいられない。

車を運転していて誤って事故を起こすことはある。事故を起こしたくて起こすのは悪意だ。

しかし、まったくの巻き込まれ事故ではない限り事故を起こした要因というものは必ずどこかにはある。

僕とてそうそう事故に巻き込まれたくない。
僕は平穏に過ごしたい。愛する人には愛していると心から毎日伝えたい。

可能であるなら、事故に合う可能性は少なくしたい。
事故に合ってしまったのなら、なぜ事故に合ったのか、その原因を追究し、二度と起こらないようにお互い注意したい。
末永く、安全に安心に過ごしたい。

しかし、「末永く、安全に安心に過ごしたい。」と思っているもののその努力を怠る人は意外と多い。

一番悪いのは車をぶつけられたことを相手にいわないことだ。
その次は原因を追究せずに、なぁなぁで済ませること。
もっと悪いのは、怒りにまかせて逆に相手を怒らせるあるいは、ひどく傷づけること。









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