「“湯谷”(ゆたん)って何?」から始まる組織開発
何年経ったら老舗?
「創業100年」と聞くと、老舗という気がします。しかし、「創業は大正12年」と聞くと、「長く続いているなぁ」とは思うものの、老舗という言葉をあてはめるのには違和感を覚えます。それなら、創業がいつ頃だったらこの違和感がないのでしょうか。例えば、明治や慶応だったらどうでしょうか。やはり、老舗という言葉は素直に受け入れられないように思います。それでは、創業が元治あるいは文久と聞いたらどうでしょうか。こうなると「老舗だなぁ」と納得がいきます。
つまり日本企業の場合、明治維新後にできた組織か、江戸時代以前からある組織かで違ってくるように思います。この境目は、日本が近代化した時代です。世界史的に産業革命が起こったのは18世紀ですが、日本では明治政府の行った殖産工業政策以降でしょう。つまり、工業化に支えられた製品は、なぜか老舗と呼ぶに相応しくないと感じてしまうような気がします。それは、機械を利用して作ったのではなく、機械が作ったと感じさせるものに、味わいというものを感じないからかもしれません。
だから、例え100年以上の活動期間があったとしても、手作り感のない製品を生み出している企業を、老舗と呼ぶのには抵抗を感じるのだと思います。ましてや、もうすぐ戦後生まれの企業も100年企業になろうとしている現在、この思いは私のなかで強まっているように感じています。これは、人の暖かさに対する郷愁でしょうか。
100年という合理性?
100年企業をセンチュリーカンパニーとして称える風潮が一部にあります。それでは、99年企業はどうなるのでしょうか。この1年の違いは、何なのでしょうか。
おそらく、そこに合理的な理由など存在しないでしょう。ただ、分類、線引きをすることによって、状況をわかりやすく説明しただけだと思われます。これは、何事もアンチノミーで考えれば良いとする、すなわち科学的、数学的な理解を普遍的な解(善)とする、西洋的、キリスト教的倫理観の中でのみ成立する発想なのでしょう。
だから、100年経過していても老舗だとは感じない企業がある一方、例え100年を経過していなくても、「老舗だなぁ」と感じさせる企業もあるのです。
「推し活」は合理?
老舗の捉え方でもわかる通り、世の中をすべて割り切って考えようとすることが、換言すればわかりやすくすることが、本当に求められているのか疑問です。
例えば「推し活」は、それ自体、自己満足で成立している概念です。にもかかわらず、それを第三者評価することで(わかりやすく解説することで)煽ろうとする商業活動は、一時は隆盛を誇るでしょうが、すぐに衰退していくのではないでしょうか。ましてや、ファン(推し活をしている人)をスタッフ(推し活を煽る人)になってもらうという発想は、本末転倒でしょう。なぜなら、商品(サービス)を受けることの喜び(目的)と、提供することの喜び(目的)は、全く別物なのですから。
このように、他者に説明できない(非合理な)喜びを理屈(合理)で説明するということは、すでにある考え方の範囲に押しとどめようとすることでもあります。換言すれば、それは固定観念の上に成り立つ活動であり、ひょっとすると、新しい芽を摘んでいくことにも繋がっているような気がします。
『太陽がいっぱい』のリプリーについては、様々な解釈がなされています。「これが正しい解釈」としないからこそ、この作品は今も観られ、読み継がれているのでしょう。こうだと決めつけられては、ここまで作品が生きながらえることもないように思われます。
“私の正義”を認めることは”やましき沈黙”
もちろん、だからといって、暑苦しい“私の正義”を正当化したりはしません。『警視庁身元不明人相談室』の三田桜は、自分の正義だけを守ろうとしています。それは、ある種の熱血を示す点で、好感を呼ぶかもしれません。そして、ドラマの主人公であるために、その思い込みが裏切られることはありません。だから“自分だけの正義”が、普遍的な正義であっかのように描かれています。しかし、普遍的な正義などはないのではないでしょうか。それぞれに正義は存在します。だから、正義を求める行為には、葛藤が生じるのだと思います。ドラマでは、熱血であることによってこの葛藤に蓋をしています。主人公は別の視点から指摘を受けても反省せず、ただ、その反証に対して苦闘するだけです。常に「自分は正しい(自分は納得できない。自分はこうしたい)」の一点張りです。
これを若さとして甘やかすことは、間違っていると思っていても、意見を言わす、ただ、空気に流されようとする「やましき沈黙」ではないでしょうか。葛藤を避ければ、反省の機会を失い、したがって何も学ぶことができません。熱血であることを免罪符にしてはいけないと思うのは、老人のひがみでしょうか…。
湯谷で包み込む
油断とは、本来は、「ゆったりしている様」を表す「湯谷(ゆたん)」が語源とされるそうです。現在なら、リラックスと好意的に受け取られる状態ですが、すでに平安時代ころには、戒めるべき状態と認識されていたようです。
包容力をもって認め合うことは、理屈で理解したフリを装うことでも、狭隘な熱血に沈黙することでもないでしょう。そうでなければ、長命企業は自らを老舗たらんとしないでしょうし、推し活も続けていくことは難しくなるでしょう。
闇雲に合理的解釈を求めようとする風潮は、どこか焦燥感のようなものを感じます。換言すれば、「湯谷」であることを許さない空気があるように思われます。人も組織も、何かの呪縛に囚われてはいないでしょうか…。
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