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先の大戦に学ぶ 岩﨑 充孝(著)

古典の教養を現代に生かす、もう一歩深い「失敗の本質」

職場、学校、社会……あらゆる戦場で「使える」学びとは

歴史に学べ、失敗を活かせということはビジネスでも人生においても、社会全体においてもよく言われることだが、単に「歴史を繰り返すな」というだけでは実現できない。ビジネスや人生の「戦場」で本当に生きる「学び」の一つを本書が体現している。

終戦工作まで射程に入れた、新たな『失敗の本質』
第二次大戦の戦史を解説する本、中国の古典に関する本は数多くあるが、第二次大戦の事例を抽出し、中国の古典と掛け合わせたうえで、戦場はもちろんビジネスにも役立つ教訓に昇華させている本は、本書のほかに見当たらないのではないか。

例えばミッドウェー海戦の項では、著者はこのように書いている。

〈南雲中将は山口少将の「直ちに攻撃を」の進言を受けて出撃していれば、「攻撃は最大の防御なり」で大敗とはならなかったのでないか。進言を受けなかったのは、南雲中将にはハワイの真珠湾の勝利が心中にあったと思われる。孔子は「君子は泰にして、驕らず」といっておられる。また、「木鶏」の逸話もあるし、中庸には「錦を着て絅を尚ふ」(熊本の尚絅大学の学名はここに由来する)とある。実力はあっても慢心することなく、謙虚な態度の人生が望まれる〉

著者の問題意識や視線は、名著『失敗の本質』を思わせる。

しかも『失敗の本質』が基本的に個々の作戦に関しての解説や分析にとどまっているのに対し、本書では東京大空襲という敵側の作戦(日本にとっては被害)や終戦工作にも及んでいるところに特徴がある。

終戦工作に関して、本書はこう解説する。

〈ポツダム宣言国のなかにソ連がないことに対し、日本は対日参戦のためとは考えず、日ソ中立条約があり日本を敵にまわしたくない、と希望的観測をした。人間は、とかく自分の都合の良いように考えたり、苦労と楽の選択肢がある場合、楽のほうを選ぶものである。孫子は「その来たらざるを恃むことなく、吾のもって待つあるを恃むなり。その攻めざるを恃むことなく、吾の攻むべからざる所あるを恃むなり」と言っている。

敵の攻めてこないのを当てにするのでなく、自分に備えがあることを当てにしなければならないと訓じている。敵の攻めてこないことを頼りにするのでなく、敵に攻め入る隙を与えないことである。そのためには、日頃から楽でなく苦労のほうに向かい、地力を鍛えて、「備えあらば患いなし」(春秋左氏伝)にしておくことが大切である。〉

あらゆる戦場で生きるためのヒント
現代のビジネスマンにもおなじみの『孫子の兵法』だけでなく、古代中国の教養の土台になっており、三国志の登場人物で日本でも広く知られる関羽が愛読していた『春秋左氏伝』をも駆使している点は注目に値しよう。

マレー沖海戦や戦艦大和の最後など、歴史・戦史好きならピンとくる事例はもちろん、ノモンハン事件がなぜ「事件」なのか、といった、知ってるつもりで実は知らなかった歴史的知識がふんだんにちりばめられており、しかもそれを現在に引き付けて解説しているため、単に読み物としてではなく、職場や家庭、人生といったあらゆる「戦場」で生きるための知恵をも身に着けることができる。

中国の古典にしても、「死ぬまでに一度は読んでみたい」と思う人は少なくないだろう。しかし実行できないことがほとんどで、読み始めても挫折してしまったという人も多いはずだ。しかし本書では、具体的な事例と教訓に合わせて適切な古典の一節が引用されているため、すんなりと知識を身に着けることができるのも利点だ。

「先の大戦に学ぶ」というタイトルの背景にある「学び」の姿勢は、これほどまでに深く広い。考えてみれば人類史は戦争の連続であり、「先の大戦では何が起きていたのか」という戦史そのものの「学び」と共に、著者曰く〈命のやり取り〉でもある戦争から何を学びうるのかを深く考えさせられること請け合いだ。

文・梶原麻衣子

[著者プロフィール]
岩﨑 充孝(いわさき みつたか)

昭和17年、福岡県大牟田市生まれ、福岡大学卒。
福岡社会保険事務局総務調整官、聖マリア病院病院本部長歴任。
NPO岡田武彦記念館理事、社会福祉法人平和の聖母理事。
保健医療経営大学特任教授として活動中。
著書 『診療報酬のしくみと基本』『療養担当規則ハンドブック』『故事に学ぶ』

はじめに

  儒教の聖人である孔子は約2500年前、「故きを温ねて新しきを知る、以て師と為るべし」、また「我は生まれながらにして之を知る者に非ず。古を好み、敏として之を求むる者なり」と歴史を学ぶことの重要性を訓じている。

 為政者は民の安全と国を豊かにするために、さきざきに起こるであろう事柄を察知し、対策を立てることが重要である。北宋の名臣の范仲淹は「天下の憂いにさきがけて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」、これが政治を行う者の基本であると訓えている。

 一人ひとりが厳しい人生を生きていく上には経済的な充実、家族との良好な関係や社会生活を満たされるためには教養が重要である。この教養に深い歴史の知識があれば豊かな人生がおくれると考える。

 戦争は命のやりとりであり、戦争から学ぶことは多いようである。太平洋戦争で海軍を中心とした戦闘の事実を述べ、関連事項を「参考」として述べて、その戦争行為から「学ぶ」ものを述べている。

第一章 大戦への道 

ノモンハン事件①

  ノモンハン事件は昭和14年(1939)5月、満州国に駐屯する関東軍とソ連軍・モンゴル人民共和国(外蒙)軍との間に発生した武力衝突である。前段の戦いとして、前年の昭和13年7月15日から8月11日にかけて、満州国とソ連の国境の張鼓峰(ちょうこほう)周辺にソ連軍が進出展開した。日本はこれを機に朝鮮軍第19師団(大日本帝国陸軍隷下)が出動し、一旦はソ連軍を駆逐し占領した。その後、ソ連軍の反撃にあい、日本軍は死者1440人をだして停戦し、日本軍が撤兵して事件は終結した。これを「張鼓峰事件」と呼称した。

 満ソ国境には国境線が確定しない地域があり、紛争の種となるので、関東軍の参謀の辻少佐が起草し、「関東軍満ソ国境紛争処理要綱」が策定された。内容は「国境線明確ならざる地域は、防衛司令官が自主的に国境線を認定せよ、衝突せば必勝を期す」とあり、第一線の司令官に大きな権限を与えた。

 ノモンハンはハルハ河のほとりの小さな集落で、国境は定まっておらず、東支隊はノモンハンへ進出し、外蒙古軍を高地より撤退させた。このことはかって世界大帝国を樹立した蒙古としては、初めて外国から侵入されたことになる。外蒙古軍はソ連軍の支援をうけてハルハ河の東岸に布陣した。

 東支隊と山県支隊(歩兵64連隊)が攻撃を開始したが、敵戦車により東支隊は突き込みすぎて全滅、山県支隊は戦線を離脱した。関東軍は安岡支隊の戦車2連隊と歩兵1連隊を投入したが、日本軍の戦車は敵戦車砲に破壊された。ソ連軍戦車は装甲が厚く、日本軍の戦車砲および対戦車砲では破壊できなかった。日本軍の戦車が半減した時点で虎の子の戦車を温存するため、原駐屯地への帰還命令を出す愚をおかした。

 その後、内村砲兵団を投入し、3日間砲撃するも戦果は挙がらなかった。原因はソ連砲と日本砲の射程距離が1割から7割の違いがあったことである。

 8月4日には第6軍を設置したが、戦力ではソ連軍は歩兵1・6倍、火砲2倍、機銃2255挺に対し1283挺、大砲216門に対し135門、対戦車砲288門に対し142門、戦車498輌に対し0、飛行機581機に対し113機と劣悪な状態であった。8月20日午前5時にソ連軍は大攻勢で展開し、フイ高地と10高地は戦場となった。

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