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聖徳太子仏教倭王論:聖徳太子の実像から考える天皇制誕生の秘密 半沢 英一 (著)

[商品について]
聖徳太子と天皇思想の謎をとく
日本人ならば誰でも知っている聖徳太子は、「日出る処の天子」の書簡を送ったことでも知られる。
『古事記』『日本書紀』によれば、当時の日本の主権者は女王「推古天皇」であるが、『隋書』に記録されている「日出る処の天子」は男性として描かれている。
この「『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾」は何を意味するのか――。
聖徳太子から見えてくる天皇制と日本古代史の謎を、丁寧に論証しながら解き明かす本書は、古代史ファンのみならず、歴史に興味のあるすべての人にお届けしたい一書となっている。

[出版社からのコメント]
古代史は研究の対象となる文献が非常に少ない点で、歴史の中でも難しい分野といえます。本書ではそうした困難を、文献を丁寧に読み解き、古代史に対する「思い込み」を排除しながら、謎の解明に向けて一歩ずつ前進します。聖徳太子と天皇制という二つの大きなテーマが本書でどの様に語られ、どの様な結論を導き出すのか、ぜひ謎解きを一緒に楽しみながら、私たちの現在にもつながる古代史の世界を味わっていただければ嬉しく思います。

[著者プロフィール]
半沢 英一(はんざわ・えいいち)
東北大学理学部数学科卒。理学博士。元北海道大学・金沢大学教員。現在いしかわ教育総合研究所・共同代表。
主要著書・論文
「ステファン問題の古典解(英文)」(『東北数学雑誌』1981)
「シュヴァルツ超関数理念の一般化(英文)」(『日本応用産業数学雑誌』1992)
「数学と冤罪―弘前事件における確率論誤用の解析」(庭山英雄編『被告・最高裁』技術と人間1995)
『狭山裁判の超論理』解放出版社2002
「ナッシュのゲーム理論―正義と競争の数学的関係」(『数学通信』2007、日本数学会HPで公開)
『雲の先の修羅―『坂の上の雲』批判』東信堂2009
『邪馬台国の数学と歴史学』ビレッジプレス2011
『天皇制以前の聖徳太子』ビレッジプレス2011
『ヘックス入門―天才ナッシュが考えた数学的ボードゲーム』ビレッジプレス2013
『こんな道徳教育では国際社会から孤立するだけ』合同出版2017


 こうした密室事件のほとんどは、考えうる三つの説明のどれかに当てはまるそうです。すなわち、時間が間違っていたか、場所が間違っていたか、あるいは被害者の他に人はいなかったかのどれかです。この事件では、われわれの時間のとらえ方が、どこか間違っていたと考えてみたらどうでしょう?

ジョン・ディクスン・カー『悪魔のひじの家』[71(p209)]


はじめに


 読者のみなさんが日本人ならば


  日出(ひいず)る処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)なきや。


という文章をご存じのことと思います。

 この文章は七世紀前半に書かれた中国の歴史書『隋書(ずいしょ)』に、七世紀初頭の倭国(わこく)(当時の日本の呼称)の王が隋(ずい)(当時の中国王朝)の皇帝に送った書簡中の文言(もんごん)として記録されたものです。日本ではその書簡を書いた人物は当時の大政治家・聖徳太子(しょうとくたいし)とされ、小国・日本が当時の超大国・中国を格下、少なくとも同格と扱ったと見えることで、日本人の心意気を示すものと評価する人が多いこともご存じかも知れません。

 他者を格下に扱うことが日本人の心意気だという発想には同意できませんが、それはともかく『隋書(ずいしょ)』のどこにも「日出る処の天子」と称した倭王(わおう)が「聖徳太子」だとは書いてありません。また当時の日本の主権者は八世紀初頭に完成した日本の歴史書『古事記(こじき)』『日本書紀(にほんしょき)』によれば女王「推古天皇(すいこてんのう)」であり、「聖徳太子」はその摂政(せっしょう)・皇太子ではあっても主権者ではありませんでした。

 ところが『隋書』の「日出る処の天子」は、「妻」や「後宮(こうきゅう)(ハレム)」を持つ男性で、しかも「天子」を自称しているれっきとした主権者です。そのことは書簡が中国にもたらされた翌年に中国の使いが日本を訪れ、その王本人と直接会い話をしたことで確認されています。

 つまり七世紀初頭の倭国の主権者を七世紀前半に書かれた中国の歴史書は男性としているのに八世紀初頭に完成した日本の歴史書は女性としているのです。

 さて『古事記』『日本書紀』はこれから何度も言及する本なので(一般に行われていることですが)それぞれを『記(き)』『紀(き)』と随時略称することにします。そしてここで説明した矛盾を「『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾」と呼ぶことにします。

 私は日本古代史に興味を持ち始めた当初から、この『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾が不思議でなりませんでした。あまりの不思議さに、『隋書』に記された王権は『記』『紀』に記された畿内(きない)とは別地域(具体的には九州)の王権だと思っていた時期もあります。しかしそのような理解は、日本古代史の基本的知識を得ることにより幻想であることを悟(さと)りました(本書後述)。

 一方、「聖徳太子」に関する考古学的事実も気になり始めました。ご存じのように「聖徳太子」は「推古天皇」の都・飛鳥(あすか)から十七キロメートルも離れた斑鳩(いかるが)に住居を移しました。しかも斑鳩の地には斑鳩宮(いかるがのみや)や斑鳩寺(いかるがでら)(創建法隆寺)だけではなく(これも本書後述)二キロメートル四方にわたり統一した方位で「ミニ宮都」が造営されました。このように時の政権があった場所からかなり離れた場所に新しい都を造営することが、主権者ではないナンバーツーに許されるものでしょうか

 しかし『紀』は「聖徳太子」を大政治家・大思想家としながら主権者としてはいません。そしてもし「聖徳太子」が主権者だったならば、なぜそのことを『記』『紀』は隠すのか、その理由が昔の私にはさっぱり分かりませんでした。

 こうして日本古代史の基本的知識をまがりなりに得たつもりの私でしたが、『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾は依然として巨大な謎でした。そして古代史の専門家の諸説を拝見していっても矛盾に対する自然な説明は見いだせませんでした。

 日本古代史学は、『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾の前に、いわば立ちすくんでいるように私には見えたのです。

 けれども現在の私は、『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾に対し、史料、考古学および社会史、思想史の事実に支えられた自然な解答を得たと思っています。

 私の答えは、「聖徳太子」とは仏教を指導理念として前方後円墳時代(ぜんぽうこうえんふんじだい)を終わらせ国家的秩序を求める社会革命で表れた仏教倭王であり、後に『記』『紀』が天皇の思想を創出したとき天皇の思想に矛盾するために隠蔽(いんぺい)されたというものです。

 私は一介の数学者で歴史学の専門家ではありませんが、本書の基本的アイディアは専門誌である『日本書紀研究』にも発表されたもので[131]、その論証は歴史学の検証に値するものと自負しています。

 本書は、『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾に対する私の解答を、学問的批判に耐えるものであると同時に、この問題に関心を持つどなたにでも楽しく分かっていただけるように丁寧に説明したものです。ただし厳密な論証が必要だったことと私の非力により、完全なエンターテインメントにはなっていないと思われます。読者のみなさんには論証を追うある程度の努力をお願いします。

 また、読者のみなさんが私の主張をうのみにすることなく、その真偽を最終的にはご自分で判断いただけるように、依拠した事実の典拠(てんきょ)は極力述べたつもりです。読者のみなさんに主張の真偽を肩書きや権威ではなく、事実と論理のみによって判断されることもお願いしたいと思います。

 本書を、「聖徳太子」に興味を持たれる方のみならず、天皇制や日本史を根本的に考えなおしたいと思われる、すべての方々に読んでいただけることを希望してやみません。



第1部 『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾


第1章 『隋書』の男王「阿毎多利思比孤」


1 『隋書』倭国伝

 隋(ずい)(西暦五八一~六一八)は三百年近く続いた中国の南北分裂を終わらせ、今でも残る中国の南北をつなぐ大運河をつくるなど、歴史に大きな足跡を残した王朝です。しかし二代目の煬帝(ようだい)が無謀な高句麗(こうくり)遠征を繰り返したことにより、わずか四十年足らずで滅びました[47、87、155]。

 隋の滅亡後、それと交替したのは中国史上屈指の長期王朝となった唐(六一八~九〇七)です。その唐の初期に書かれた隋の通史が『隋書(ずいしょ)』[47]で、その倭国伝(わこくでん)〈注1〉に「はじめに」で挙げた「日出(ひいず)る処の天子、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)なきや」という文言を含む、七世紀初頭に行われた倭と隋の外交が記されています(写真1、2)。

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