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夜明けのサヨナラ 池谷 敦子 (著)

※ "わたしが居る場所"の改訂版です。

まなざしが、自分の居場所を作る

「感動は見ることから始まる」と気づかされる詩集

本書は、まるでショートフィルムを観ているかのように、美しい映像が脳裏に浮かぶ詩集だ。

著者のまなざしは時にやさしく、時に貪欲に自然や人をしっかりと見つめ、ていねいに表現する。

そのさまは軽やかで、心を預けたくなる心地よさがある。

磨かれた感性が解き放つ
 著者の池谷敦子氏は、1995年に著作『ブリキの月』を発表後、コンスタントに作品を作っている人物だ。そのためか言葉で表現することのよろこびが、節々から伝わってくる詩集となっている。

 掲載されている作品は、言葉選びのていねいさはもちろんだが、まなざしが心地いい。人物だけではなく、空や海などの描写も多く、飽きのこない作品群が魅力だ。

 同時に本書を手に取ると、道を歩くだけでも、本当はさまざまなドラマティックな場面に遭遇しているのだと気づかされる。多くの人は、気づかずに通し過ぎてしまうだろう。

 たとえば古墳を巡る道すがら男性と赤子を抱えた女性の姿に気づかなければ、赤子が微笑む姿も見ることはなかったかもしれない。

 本書は、人が通り過ぎがちな世界を、独自のフィルターを通して立ち上がらせた詩集ともいえる。きっと多くの人の心を癒す本となるだろう。

 同時に物事の見つめ方によって、感じ方は異なる。たとえば海は「心を受け入れてくれる海」にも「死を連想させる海」にもなる。だからこそ、人や自然への温かいまなざしが、心に平和をともす。

「見る」をしなければ「発見」もない
 何かを見て、感じてアウトプットすることで、心が変わっていく。逆にいえば、「見る」をしなければ、アウトプットも生まれない。見ることは興味を示すことである。道行く人、海や空、雨などは正直、どこにでもあるもので特別視する対象ではないと思われがちだが、それぞれコンテンツになる魅力が溢れていること忘れてしまっていた。

 日常の風景こそ、発見や感動が潜んでいるのだ。そんなことに気づかされる詩集である。

想像力が刺激される詩
 本書には、少々変わった詩も用意されている。たとえば「耳」だ。

 舞台は窓が閉ざされた空間で、白壁には目や口が壁の中に塗り込まれている、という衝撃的な内容なのだ。

 文字通り受け取るとホラーか、猟奇殺人現場である。

窓は閉ざされてしまった
まわりは白っぽい壁だけ
目は 口は
壁の中に塗りこめられてしまった
しん
として 耳だけが生き
無数に生えた耳だけが
床から天井から
ほのかに浮び上がっている
そよろ
と僅かにそよがせて耳は
待っている

 1人でお留守番をしている子どもの心情を描いているのだろうか、と考えると、また違う見方ができる。

 本書は、さまざまな角度で楽しめる詩が数多く揃っているといえるだろう。

詩の世界を旅して、過ごそう
 詩だけではなく、童話のようなストーリーも記された本書。どこを切り取っても、イマジネーションが刺激され、最初から最後まで飽きずに楽しめる。

 そして著者の好奇心の強さを、ひしひしと感じるかもしれない。そのころには、不思議と心が浄化され、日常で嫌なことがあっても詩から派生した世界に旅をして忘れさせてくれるパワーを持っている。

 感性が刺激され、世界の見え方が変わってくるかもしれない。

 本書を手に取り詩の世界に旅立ち、心を解放する時間を過ごしてみてはいかがだろう。

文・夏野久万

[著者プロフィール]
池谷 敦子(いけたに あつこ)
1929年 静岡県に生まれる。
1949年 同志社女子専門学校卒業。



序章 わたしが居る場所



野原に雨が降っている


細い雨が降っている 降り続いている

果てしなく広い海の上にも 降っている

眼に見えぬほど しずかに降っている


あなたの中にも降っている

わたしを通り抜けて

あなたの胸のキャンバスを濡らしている


細い雨の中を通り抜けて

わたしは もう向こうへ

出て行ってしまっている

ということに 気づきもしないで

まだ 昨日の雨の風景を

まさぐっているわたしが

ここにいる


萩の葉の上を転がる一粒の水に

なっていたりする

えのころ草の穂先に触れる一匹の虫に

なっていたりする



夜明けのサヨナラ



ひかりこぼれ



きさらぎ


晴れたそらの ひとところを

淡雪の


羽虫とびかい

ひたいをかすめ

きまぐれに ひとつ触れて

消え行く


こんな朝が

終(つい)のけしき かと


澄み透る 胸のうちを

微かに ひびかせ

きさら さら

さら

そら

翳(かげ)りなく


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