オジサン・オバサンという概念がない世界に行きたい。
20代も最後の年に近づいてきた。ここ数年、少しずつ、周囲からの扱いが変わってくるのを感じる。
そして、今後、「周りからの扱われ方が変わる」最たる例の一つが、「オジサン」「オバサン」と呼ばれるようになることになるのではないかと思っている。
歳を重ねるのは良いことだと思っているし、流れるときの中を生きている以上、自然なことだと思っている。
誰しも生きていれば、確実に歳を重ねていく。
そこに対しては、あまりネガティブなイメージはない(「歳を重ねる割に成長してないなぁ」と自己嫌悪するときはネガティブになるけれど...)。
ただし、"もう少ししたら、「オバサン」という概念で括られて見られるようになるのかもしれない"、という事に対しては、抵抗を感じている。
もちろん、親しみと敬意を込めて、「オジサン」「オバサン」が使われるときもあるだろうし、それらをすべて否定するつもりはない。
ただし、時に、これらの形容は、「もう若くない人」「身の回りに気を使わない人」等、ネガティブなステレオタイプ像を引き連れてくる。
「XX歳過ぎたらもうオジサン」「XX歳過ぎたらもうオバサン」「オバサン化」「オジサン化」など、このような使われ方は枚挙に暇がない。
そしてそこには、オジサン像・オバサン像があって、個々の人格への興味・敬意は、どこか希薄化してしまっている時がある(気がする)。
ミドルエイジの人がいたとして、その人を「オジサン」「オバサン」と形容してしまうことで、その人をカテゴライズする。そして、あとは、自分にとって「良い人」か「悪い人」か、はたまた「無害な人」くらいが分かれば、その人について、おおよそ把握出来た気になる時はないだろうか?
たまにふと思う。
もしこれらの言葉がなかったら、「年齢のレンジ像に縛られすぎず、もう少し、個人のあるがままを生きられる・見られるようになるのではないか」と。
そして、もはや男・女だけで性別が語られるべき時代でもない。
本当は名もないオリジナルな色なのに、そして幾つも色を持っているのに、「自分の色は"赤"」だと思ってしまってはいないか。
「カテゴライズ」「グルーピング」という行為は、たしかに便利なときもある(マーケ業務でも必須だし)。
だけれど、日々、他人と生身で接するに当たり、その「カテゴライズフィルター」を通しすぎて、「その人そのもの」が見えなくなることがある。
そして、フィルターされた側は、生きづらさを感じることもあるだろう。
また、知らない間にその型に囚われて、自分そのものを見失ってしまうこともあるかもしれない。
多様な世の中、もう少し、「個を個として見る」・「個が個として見られる」様になると、もっと自分の人生を生きられるようになるのでは、と思う。
私はいくつになっても、「お姉さん」でも「オバサン」でも「おばあさん」でもなく、名前で呼んでほしい。
名前がわからないときは、ただ「そこのあなた」で良いから。
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