見出し画像

投資の神様が教えてくれた判断の迷いを減らす方法

30台の前半くらいのころ、過重労働とマルチタスク作業の弊害で、こころの弾力がなくなった。まるで着古したスウェットパンツのゴムひもみたいに、びよんびよんと、思考が伸びきって元に戻らなくなった。

自分のあたまが、まるで餅つきの石うすに放り込まれ、杵に打たれ、水をまぶされはこねくり回され、細胞という細胞が破壊されたような感覚だった。

(仕事にはがんばりどころもあるけれど、働きすぎてはいけませんね)

その後、時間をかけて睡眠や食事などの生活習慣を改めて、なんとか体調を立て直した。そのころに何かの書籍で紹介されていたんだったか、世界的な投資家であるウォーレン・バフェットの「25:5の法則」を試してみた。

「25:5の法則」はとてもシンプルなもので、人生で達成したい目標を25個書き出して、さらに重要な5つを選び、残りの20個は手放すというもの。

退路を絶つのではなくて進路を絶つ、未来の選択肢を自ら狭めることで最優先事項を明らかにする、そういう手法と解釈するとよろしいと思う。


すこし前にコピーライターの糸井重里さんが運営する「ほぼ日」で「現代人が1日に受け取る情報は平安時代の一生分」とのエッセイが載っていた。

現代の情報化社会では、何でもかんでも選択肢を広げようと躍起で、目移りするコンテンツがいくらでもあって、あらゆる情報が錯綜・氾濫している。刺激的で煽情的な記事の見出しには、ついスマホ画面をタップしてしまう。

ドイツの文学者で詩人のヘルマン・ヘッセが「ガラス玉演戯」という最後に書いた長編小説でこんなことを書いている。

――それというのも、教会からはもはや慰められず、精神からは助言を受けず、死や不安や苦痛や飢餓に対しほとんど無防御だったからである。あれほど多くの論文を読み、講演を聴きながら、恐怖に対し自己を強化し、死に対する心中の不安を征服するためには時間と骨折りを惜しんだ。彼らは、けいれんしながら生を送り、明日というものを信じなかった。

ヘルマン・ヘッセ「ガラス玉演戯」

補足として書くと「彼ら」とは、フェユトン(文芸娯楽欄)時代の人々を指している。フェユトン時代とは小説中の設定で「この時代の人びとは生活と国家の運営の中で、精神に相応しい位地と機能をあてがうことを知らなかった」と書かれている。

こんな感じで「ガラス玉演戯」は、ヘッセの小説の中でも難解な部類なんだけれども、面白いのは、インターネットでこたつ記事が量産される現代社会を予言した内容になっている点だと思う。

とくに「けいれんしながら生を送り、明日というものを信じなかった」の記述には、もう現代社会が予言されてますやん、と思って震えてしまった。

こころの弾力を失ったころの日々の行動を振り返ってみたんです。すると一日、何かやったようでいて、じつは何も覚えていなかったんですよね。スマホをながめてけいれんして生きてただけ。まさに実感していたことだった。


バフェットの「25:5の法則」は1時間もかからずに試みれる。

試みてわかったことは、自分は「会社の中で出世する」「ある職種の専門家になる」「いい家・いい車・いい時計を買う」といった欲求を重要視しない傾向だった。こうした虚栄心を満たすたぐいの目標を捨てることにした。

そして、いちばんたいせつにしたかったのは「人生をののしらない」ということだ。われながら気取った言い方だけど、換言すれば、人生に退屈したり幻滅したり倦怠感に陥りたくない、ということだ。

20個を捨てて、残った5つの人生の目標に沿ってその後の人生における判断をしてきた。結果、会社員時代の少なくない報酬を捨ててフリーランスでライターなんぞしているのだから、自分でもおどろく。

会社を辞めたのは魔が差した気もしているが、残った5つの目標には適った判断だったとも思う。「人生に退屈・幻滅したくない」というのはわがままな考え方だ。でも、その考え方に基づく自分の来し方を気に入っている。

ビジネスに関連するライターになったのは、「聴くこと」と「書くこと」の営為を通じて、個人や会社がイキイキと生活したり働いたりしている様子を数多く見たいと思ったからだ。

そして、もうすでに何度かそういう瞬間を味わってもいる。ありがたいことであります。ほんとに。

人生のある時期において、無数にある将来の「進路を絶つ」。それは人生が生きやすくなる大きな発見の1つだったな、と今は振り返っている。

この記事が参加している募集

ライターの仕事

最後まで読んでいただきありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いします。 いただきましたサポートは、書籍や芸術などのインプットと自己研鑽に充てて、脳内でより善い創発が生み出されるために大切に使わせていただきます。