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職場で、ケアするのは誰か?

職場で疑問に思っていたことがある。誰かを配慮したり、気遣いを向けることに対して、無言の抵抗のような、ためらいの気分が生じるのはなぜなんだろう、と

たぶん、ぼくの前職の会社に特有のものではなく、社外の友人や知り合いと会話する中でも感じることなので、世間一般おしなべて、そういうものだと思い至っている。

この違和感の正体は何なのか、つねづね考えていたところ、直近に読んだ本に腑に落ちる記述があった。(太字部分はぼくがつけました)

――だからこそ、公的領域では、そうしたケアを必要とするひとは存在しないかのように想定できたのであり、ケア実践に社会的な価値を与えず、あくまで私事に留めていくことで、他者を「気遣う」人々をも、私的領域へと閉じ込めることができた。なぜなら、その気遣いの在り方は、公的領域にはふさわしい態度ではないから、と。

J・C・トロント[著]、岡野八代[訳・著]『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』

この本の中で「私的領域へと閉じ込め」られた「他者を気遣う人々」とは女性たちを指しているのだけど、ぼくは女性たちにかぎらず、「その気遣いの在り方」に違和感を覚えさせられるひと全般、として読んだ。

そうか、やっぱり「ふさわしい態度ではない」のか。職場や公共の場において、気遣いや心配、ケアにつながる言動がネガティブに捉えられる空気がある。そうした態度は軟弱で繊細で感傷的であるがゆえに、自立した大人たちで構成されるオフィシャルな場面にふさわしくない、と。

この記述を読んでいて、以前に職場で交わした、同僚との短いやり取りを思い出した。会社が、策定中の中期経営計画の業績目標を達成した、その日の朝のことだ。

***

もう数年前のこと、その日は本決算の営業本締め日だった。「営業本締め」とは一般的な用語ではないかもしれないので補足すると、その日までに事業部門は売上や仕入、経費伝票をすべて入力する。その翌日、経理部門が決算整理仕訳や再修正仕訳を入れる「経理本締め日」がある。

会社のオフィスビルのエレベーターホールで、顔見知りの営業の人と会う。営業本締めの日には、営業はおおむね事務処理を終えている。部門や自身のノルマを達成した人の表情は晴れやかだし、未達の人の顔は土色である

「あ、●●さん。大幅達成みたいですね。さすがッス」
「いやー、数字が出すぎたよ。来期に回したかったんだけど(笑)」
「要件を満たしていたら計上せざるをえませんからね」
「裏技を駆使しようとしたけど業務部にダメだって言われた」

エレベーターに乗ってから、営業課長の●●さんと会話する。ぼくは前日に、管理会計システムで全社の課単位の達成状況を確認していたので、その課長さんの部門がノルマを達成したことを知っている。日ごろよりさらに明るく柔らかな表情だ。

エレベーターの真ん中では、営業部門の幹部を中心にして、大きな声で会話が繰り広げられる。みな業績が良いらしく、陽気な雰囲気を醸し出している。ぼくはエレベーターパネルの前に位置して、そんな営業の機嫌の良い会話を楽しく聞く。会社の業績が良ければ、すべてがうまく回ってくれる。

会社はビルの複数フロアを借りていて、下から営業部門、エンジニア部門、コーポレート部門とフロアが分かれていた。ぼくはコーポレート部門の1つ上のフロアで、降りるのはいつも最後だった。

営業の人たちがエレベーターから降りていく。中を見渡すと、エンジニアの人がひとりと、奥にコーポレート部門の事務職の▲▲さんがいた。以前に同僚だったし、特徴的な服装の人だったので、見まちがうことはなかった。

ふと、コーポレート部門のフロアのパネルが点灯していないことに気づき、ぼくはパネルを押しておいた。エンジニアの人が降りる。わずかな時間、▲▲さんと二人になる。

「ありがとう、押してくれて」

と、その人が小さな声でいう。

「奥に▲▲さんっぽいシルエットの人がいるよなぁ、と思って」

と返すと、その人がほほ笑む。そして、去りぎわに「ありがとう」と、もう一度言ってくれる。いえいえ、何のこれしき。エレベーターが閉まる前に返答する。

ぼくは自分のフロアに到着してから、少し気になり、その人の「ありがとう」という言い方や声量をマネしてみた。

揺れるような声の響きに、さみしさのようなものを感じた。「(自分の存在を気にかけてくれて)ありがとう」と言われた気がしたのだった。大げさな表現かもしれないけれど。なんというのか。

自分の席に座って、パソコンを開いて、管理会計システムで全社単位の業績を確認する。中期経営計画の数値目標は達成できそうで、ホッと安堵する。決算発表後の株価の推移が楽しみだ。

そんな実務上の感慨と並行して「ありがとう」の響きが頭によぎって離れなかった。そして今でも覚えている。最終的な会社の業績数値は忘れてしまった。

***

職場のような公的領域では、ケアを受けられる立場の人と、そうではなくて存在が矮小化される人に差が出る。それはエレベーターの片隅に静かに位置する人と、真ん中で談笑する人たちとの違いのようだった。

たとえば経営陣などの偉い人たちには秘書がいてスケジュール管理をしてくれるし、参謀役の右腕がいたり、雑用を引き受ける小姓がいたりする(ちなみにぼくは雑用係をながく務めた)。

一方、ケアを受ける立場にない人には自立した行動が求められる。「誰かに迷惑をかけてはいけない」。それはケアされてはいけない、と近しくて、そのことにぼくは違和感をいだいていた気がする。

エレベーターに乗ったとき、▲▲さんは自分の降りるフロアのパネルを押し損ねた。エレベーターの真ん中には声の大きな営業の人たちがいたので分け入って押すこともためらわれる。人が減ったときに押せばいい、と考えていたのだろう。

お礼を言われるまでもないわずかな気遣いだったのだ。でも、▲▲さんはパネルを押したぼくにお礼を言った。あの日に感じた「さみしさ」は、▲▲さん自身のさみしさへの共感ではなく、わずかな気遣いさえもありがたいと感じさせる、公的領域でのケア感情の不在の心許なさだったように思う。

***

同僚の▲▲さんは、すでに会社を辞められた。ぼくも、公的領域にふさわしい態度を取れない変な人間だったからか、紆余曲折があって会社を去った。

お元気にされているだろうか。あの人の周囲に、あたたかな気遣いやケアがあふれているといいな、と願っている。