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【日記】ベルクソンを一口齧ったら

何の足しにもならない、愚にもつかない文です。


読書記録的なもの。のはずだった。

アンリ・ベルクソン。
名前は知ってたけど、その著作やその思想を解説したものは読んだことがない。
哲学者だけどノーベル文学賞も受賞したんだっけか。
それくらいの認識だった。

とりあえず、こちらのKindle版を購入して読んだ。

実は2週間ぐらい前に買って半分ぐらいまで読んだのだが、仕事が忙しくなって放置していた。GW最終日にふと思い出し、最初から読み返す。たぶん2時間ちょっとぐらいで読了。

内容としては、ベルクソンの主著とされる4作のうち、『時間と自由』と『物質と記憶』を主に取り上げて、そのエッセンスだけをかなり掻い摘んで解説したもの(らしい。どれくらい簡略化・単純化されているか、勿論私には分からない。)。


個人的に気になったのは、第2章第1節。

曰く、人間の知覚は、複雑で多様な差異・運動・変化に満ちた物の総体から、実践的な観点に基づいて極めて多くのものを捨象している。
また、知性及び言語は、流動し複雑な世界を人間が活動可能な限度の素描に固定する。

後者は、言語による分節・実体化・現前化の問題なので、まぁ理解できる。
そして、前者。少し考えてみれば当然のことなのだが、なぜかものすごくストンと来た。

カントは感性のアプリオリな形式として空間と時間を挙げたが、ベルクソンはそこからさらに進んで、「そうであるからこそ知覚は多くのものを捨象している」ことを指摘した、ということだろうか(ちなみに私はカントもよく知らない。)。


ここで、ふと自分のことが気になった。

他の仕事についたことがないから他がどうかは分からないが、私の仕事はとりわけ論理性が重視される(この程度の文章しか書けないのに?と思った方、ぐうの音も出ないのでやめてください。)。
調べ物をし、論理的に思考し、論理的な文章を書く、単純化すれば私の仕事の8割はそれに尽きるといっても過言ではない。ただし、用いられるその論理も、この仕事特有の論理なのである。

この思考が染み付いていて、あまりにも多くのことを捨象してしまっていると感じることは以前からあった。
こうして思考が貧困になっていくのだなと感じる(なので、仕事とは全く関係のない本をなるべく読むようにしているという面もある。)。

ここまでは言語による分節・実体化・現前化の側面。

続いて、知覚の側面。

ベルクソンが語っているのはあくまでも原理的な話であって、実際の生活でどれくらいのものをシャットアウトしてるかという話ではない。
しかし、それにしても私の場合、シャットアウトしすぎではないか?と思った。

人付き合いが苦手で、大学を卒業してからは交流のある友人もかなり減ってしまった。職場の人間関係もかなりドライ(そういう職場だから入ったのだけど。)。
移動中はイヤホンで音楽を聞いてることが多いし、電車やバスでは音楽を聞きながら本を読んでいる。
本といってもこういう哲学とかの新書・文庫が大半で、小説やエッセイの類は滅多に読まない。
音楽を聞いてるといっても流してるだけであることも多い。

言語・記号ばかりに意識が向いてしまっている。
こうなるともはや言語・記号による分節以前の次元にすら目を向けていないどころか、摂取してる言語・記号の多くも、聞き馴染みが良くて意識が立ち止まらないものばかり。摂取していると言えるのかさえも怪しい。
仕事以外の場面でも、あまりに多くのものを捨象し過ぎている。

ここまで考えてひとりゾッとした。


やはり既成の思考に変容を迫るような破壊的な何かが求められる。

私のnoteが異様に読みにくいのは文章が下手なのではなくて、読者に対し、いちいち立ち止まりを求め、その思考に変容を迫る文体だからだ。
そういうことでひとつ、お願いしたい。

それでは。

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