見出し画像

1980:最強戦士の休息ココア[後編]

(連作短編「茶飲みともだち」#02)

 朝、なんとなく一緒に登校するようになった。
 いつも渋谷トモミが早く、僕が遅く家をでていたのだが、どちらからともなく時間をずらすようになり、やがてお互いの距離が百メートルという僅差にまでなった。そうして、肌寒い日が増えてきたころ、とうとうお互いが並ぶ時間差になった。
「……うす」
 無言もおかしいので、なんとなく挨拶をする。
「うす」
 渋谷トモミはにこりともせず、ミントの香りを漂わせるガムを噛みながら言った。
 へんなやつだ。辛くて苦くてまずいガムを平然と噛んで、僕にあわせた返事をする。いつも男子みたいな半ズボンとパーカだし、全然女子っぽくない。
 本当、へんなやつ。
「うまいのか、それ」
「いや、おいしくない。でも慣れてきた」
「は?」
 なんだこいつ。意味がわからないぞ。
「おいしくないのに、なんで食ってんだよ」
「味に慣れるたびにさ、強くなってる感じするから」
 目を見張る僕を尻目に、渋谷はまっすぐ前を向いて歩きながら続けた。
「そんで、いつかおいしいって思えたらさ。それ、大人になったってことだって、ママが言ってたから」
 なるほど。苦手なものを克服する感じらしい。僕にとってのピーマンとかニンジンみたいなことだ。それならわからなくもない。僕はうなずいて見せた。
「そうか」
「そう」
 校門をくぐった瞬間、誰かに見られるのが照れくさくて、どちらからともなく距離をつくる。そうして、もうしゃべることのない一日がはじまるのだ。
 男子間における渋谷人気はあっけなく終わり、山本シュウタくんが僕に話しかけてくることはなくなった。対する渋谷も女子らに囲まれることは二度となかったが、友達ができた様子もなかった。でも、僕だって似たようなものだ。なんとなく話をあわせるクラスメイトはいても、友達とは呼べない。仲良くなりたい相手もいなくて、結局ひとりでいることを選んでしまう。だから、学校にいると常に居心地の悪さを感じていた。
 でも、最近は渋谷を見るとなぜか安心した。それはきっと、どんな輪にもはいらず、ひとりぼっちでいることを競いあっているライバルだから。
 好敵手だからだ。

* * *

「じゃあ、行ってくるわね」
 土曜日の午後、妹を連れた母が言った。
 旭川の伯父が胆石の手術で入院することになり、急遽一泊の予定で見舞いに行くことになったのだ。本当は僕もついていきたかったのだが、遊びではないからという理由で拒否され、あえなく仕事の父と留守番チームにいれられてしまったのである。
「テーブルにおにぎりがあるからね。夜ご飯にシチューをつくってあるから、父さんが帰ってきたら温めて食べるのよ」
 学校の授業を午前で終えた僕に、母は気忙しく指示をした。
「うん」
「ガスに気をつけて、火をつけたらそばを離れちゃだめだからね。洗濯物はちゃんとカゴにいれておくのよ。もしもそこらへんに散らかしてたら、母さん絶対に洗わないから」
「わかったよ」
「茶碗を洗って掃除もしておいてくれたら、あんたの欲しがってたおもちゃ買ってあげるから」
 なんだと!
「ゲームウオッチ!?」 
 母がにやりとした。弱みを握られた気がしなくもないが、珍しい母の大盤振る舞いにのることにして、大きくうなずいた。
「わかった。ガスに気をつけるし、全部やる」
 母と妹を見送り、テレビを見ながらお昼のおにぎりを食べる。しばし漫画を読んで自由を満喫してから、お皿を洗った。テーブルを拭き、汚れた靴下をカゴに放り投げてからリビングに掃除機をかける。なんとなくきれいになったように見えて満足し、ふたたびテレビを眺めながらソファに寝転がった。いっきに頑張りすぎた疲労と、ゲームウオッチが手に入るという幸福感に満たされて、僕はテレビの音を聞きながら至福の眠りに身をゆだねた。


 ドスン。バタン。
 激しい物音に、まぶたを開ける。テレビのドラマかと思って見ると、やっていたのはクイズ番組の再放送だった。時計を見ると、一時間半も経っている。夕方と呼ぶには早い時間なのに、曇り空のせいか外はすでに暗く、テレビの明かりが居間を青く照らしていた。
 ガタン。ガシャン。
 なにかが割れる音、なにかが壁にぶつかる音。コンクリートの壁をつたって響くそれに耳をすませながら、下でも上でもなく隣から聞こえていることに心臓がはねる。
 おい、どうしたんだよ。なにをしてるんだ? もしかして、大掃除でもしてるんだろうか。あ、そうか。きっとそれだ――。
「でていけ! もうくんな!」
 渋谷のかなぎり声が聞こえた。美容師の母親は仕事をしているから、家には渋谷しかいないはず。きっとそこに、いやなやつがあらわれたんだ。
 とっさに父のサンダルをひっかけて、玄関先の箒をつかむ。ドアノブに手をかけながら、無視したっていいのだと一瞬考える。これはやつの事情だし、僕にはなんら関係のないことなのだ。でも、渋谷トモミには貸しがある。やつになにかあったとき、今度は僕が助けると言ったのは誰でもない、僕自身なのだ。
 箒をにぎりしめ、意を決してドアを開ける。季節はずれの派手な半袖シャツの男が、渋谷の家からでてきたところだった。
「パパに失礼だな。おまえに会いにきたんだぞ」 
 そう言った坊主頭の男の腕には、龍の入れ墨があった。鋭い目をした男が僕に気づき、こちらを見る。そのとき、
「ママのお金盗みにきたくせに! おまえなんかパパじゃない! ママがくる前に消えろ!」
 ドアの奥から分厚い電話帳が飛び、男の頬をかすめた。
「おまえなんか怖くない! あたしがママを守るんだ!」
 ドアを支える男が、声のした先をにらむ。まるで、映画の人殺しみたいな顔つきだ。
 雨が降りはじめ、通路の窓を濡らしていく。暗くて不気味で現実感の薄い感覚に、血の気が引いた。あいつはまずい。あいつはよくない。僕にだって、そのくらいわかる。
「そんなこと言うんじゃねえよ、トモミ。どうだ、パパと一緒に札幌こないか?」
 にやついた横顔の男が、ふたたび玄関に入ろうとする。だめだ。こいつはここで追い出さないと、絶対にだめなやつだ。僕は両手で箒をにぎり、いつでも振りまわせるよう、前に突きだした。
「けっ……警察に電話したからな!」
 とっさの嘘に、男は動きを止めた。
「も、もうすぐ父さんも帰ってくる。父さん、弁護士だから、裁判だぞ!」
 ただの市役所職員だが、実直な外見は弁護士に見えなくもない。
 男が僕を見すえた。僕はふたたび繰り返す。
「裁判だからな!」
 男が眉をひそめた直後、ラーメン配達のおじさんが階段をあがってきた。尋常ではない気配にぎょっとして、歩みを止める。大人の視線に気分を害したらしい男は、苛立ったように舌打ちをすると、顔を隠すようにうつむきながら通り過ぎて去った。
「……ど、どうしたんだい」
 配達のおじさんが言う。僕は全身の震えをとめることができないまま、弱々しく返答した。
「な、なんでもないです」
「よくわからないけど、念のために警察に電話してさ、今日一日この辺を見まわりしてもらうかい? あとでおじさん電話してあげるから」
「お、お願いします」
 通路の窓から外を見下ろすと、雨に濡れながら歩いていく男が見えた。ほっと息をついたものの、警察が見まわりにくる前に、戻ってくるかもしれないと思いなおす。
 渋谷の家のドアを見ると、靴に挟まれて隙間ができていた。そっとのぞくと、玄関先にうずくまる小さな姿があった。
 震えている。まるで吹雪のなかに取り残されたみたいに、震えていた。こいつのこんな姿は、見たくない。そんなのおまえらしくない。そんなの、普通の、どこにでもいる女子みたいじゃないか。とたんに、なんて話しかけたらいいのかわからなくなった。でも、早くしないと僕の嘘が全部バレて、男が戻るかもしれない。
「……う」
 渋谷はぴくりとも動かない。僕は静かにドアを開け放ち、なんとか声にした。
「うちでテレビ見る?」

* * *


 砂川家のソファの上で体育座りをした渋谷トモミは、テーブルの上の漫画をにらんでいた。
「……読んでもいいよ」
 渋谷はむっつりと黙り込んだまま、なにもしゃべらない。つけっぱなしの騒がしいテレビから、ゲームウオッチのコマーシャルが流れた。
「あ! これさ、買ってもらえるんだ」
 僕の空元気な発言に、渋谷はちらりとテレビを見た。けれどもすぐに目を伏せて、さっきみたいに両腕に顔をうずめて縮こまる。
 ベランダにあたる雨の音が、激しくなっていく。暗くなってきて、居間に電気を点けてからカーテンを引き、石油ストーブの温度をあげた。ストーブの上にのせたやかんの湯気に気づき、村井先生の言葉を思い出す。そうだ。今日ぐらい、こいつの茶飲みともだちになってやってもいいじゃないか。
 戸棚からカップとココアの缶をだして、台所のテーブルに並べた。ほっくりとした香りの粉をスプーンですくい、カップにいれる。角砂糖もいれた二個のカップを居間のテーブルに置き、やかんを持つ。甘い香りの湯気に気づいた渋谷が、両腕から顔をのぞかせた。
「……なにそれ」
 やっとしゃべった。
「ココアだよ。砂糖をいれた牛乳でとかすとすごくおいしいんだけど、俺にはちょっと難しいから」
 渋谷の前に置いて、僕は父さんの特等席である一人がけのマッサージチェアを陣取った。カップに息を吹きかけて、口を寄せる。渋谷ものろのろとカップを持ち、ココアを飲んだ。
「……あま」
 顔をしかめる。
「なんだよ、まずいのか」
「……そうじゃないけど、こんなのうちで飲まないし」
「じゃあ、いつもなに飲んでんだ?」
「……ママのコーヒー」
「それだって砂糖いれたりするだろ」
「……あんまりいれない。ママもいれないから」
 なにも言えずにいると、やがて渋谷トモミの顔が大きくゆがんだ。
「……あいつ嫌いだ」 
 うつむき、肩を震わせる。
「大嫌いだ」
 そうささやいた瞬間、両手でカップを持ったまま泣きだした。
「ママ、あいつのせいでいっぱい大変な思いしたんだ。やっとリコンできたのに、追いかけてくる」
 大粒の涙が次から次へとあふれ、ぽとりぽとりと足に落ちていく。
「だから、あたしが強くなんなきゃだめなんだ。ママをもっと守れるように、早く大人にならなきゃだめなんだ」
 その言葉に、はっとした。
 辛くて苦いガムの味に慣れたら、大人になれた証拠だと渋谷トモミは言った。きっとコーヒーも、それと同じだ。こいつはいつも我慢して、早く大人になるために、おいしくないものを食ったり飲んだりしていたんだ。
 大人になれたら、さっきみたいな怖い男をやっつけられるようになれるから。
 自分の母さんを、守れるようになるから。でも。だけどさ。
「……今日は、土曜日だぞ。そんで、明日は日曜日だし」
 顔を上げた渋谷トモミは、片手で涙をぬぐった。
「だからなにさ」
 だからさ。僕が言いたいのは。
「そういうのにも、休みがあったほうがいいんじゃないのかなって……」
「……は?」
「甘くておいしいものをさ、食べたり飲んだりするときがあってもいいんじゃないのかなって。辛くてまずいのに慣れようとするんじゃなくてさ。そんな急がなくたって、どうせいつか、みんな大人になるんだから。そうしたらさ、」
 なにを言ってるんだと言いたげに、渋谷トモミは眉を寄せた。
「そうしたら、なに?」
「そうしたらさ、あいつはよぼよぼのおじいちゃんになるから、おまえのほうが最強だ」
 自信たっぷりに僕が告げると、渋谷はぽかんと口を開けた。そうしてから、じわりと口角をあげる。
「……最強?」
「うん。女子でもおまえのほうが、きっと強いよ」
「……あたし、最強か」
「うん。最強だ」
 渋谷トモミが、小さく笑んだ。はじめて見る表情に、僕は満足する。
 そうだよ、負けるなよ。いろんなものに、負けちゃだめだ。おまえは僕にとって、最強の好敵手なんだから。
「あんたのお父さん、ほんとに弁護士なの?」
「違う。ただの公務員だよ」
「嘘ついたのか」
「ついていい嘘は、つくことにしてるんだ」
 僕が言うと、渋谷は声をだして笑った。つられて僕も笑う。
「あたしも真似する。あんたのこと、スナって呼んでいい?」
「うん。好きに呼べばいい」
「あたしのこと、ミイでいいよ。あたしもムーミンのミイに似てるって言われてて、前の学校でそう呼ばれてたんだ」
 似ていると思っていたのは、僕だけじゃなかったらしい。でも。
「それ、いやじゃないのか?」
「べつに。ミイ嫌いじゃないし。あんたはスナフキン嫌いなの?」
「よく知らないから、嫌いようがない」
「そっか」
 渋谷トモミであるミイは、ゆっくりとココアを最後まで飲み干した。
「これ、たまに飲むことにする」
「うん」
 僕がうなずいて見せると、ミイは目を細めてまた笑った。
「おいしかった」


 あの男は戻ってこなかったが、初雪が降った日、ミイは違う地区の団地に引っ越すことになった。おのずと転校することにもなって、教室から好敵手の姿が消えた。
 五年になり、六年になり、ぶかぶかの学ランに腕を通すことになった初日。
「スナ!」
 僕はやっと、セーラー服姿の懐かしい顔を見つけることになる。

(了)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?