[短編小説]魔法使いの山登り
地を見てもきりがなく、天をあおいでもきりがない。
どれほどの間この山を登り続けているのか、自分でももうわからない。ただ、たしかなことは、黒かった髪もひげも伸びて白くなり、すっかり老いたということだ。
ドラゴンの棲まうこの山は、魔法がいっさい通じない。それを使わず頂上に立つことができれば、魔法使いの頂点である〈大魔法使い〉になることが叶う。いにしえから言い伝えられているその伝説を、実行にうつす若者はあとをたたなかった。しかし、たいていの者はそうそうにあきらめ、山をおりる道を選ぶ。
なぜならば、この山には頂上がないから。
そのうえ、この山の主であるドラゴンに喰われることもあるからだ。
骨となった屍がいたるところにある、ここは魔の山。遠くから眺めていただけのときは、たしかに頂上があった。だが、いったん登りはじめると、いつまでたってもその頂にたどりつくことがない。
霧におおわれた道なき道を登ること数十年。自分でつくった武器と知恵でドラゴンから身を隠し、ときには戦い、逃げてきた。野草を食し、山水を飲み、一歩、また一歩と歩みを進めてきた。そうしているうちに、己の目的がなんだったのか思い出せない日が増えた。
どうして私は、この山を登っているのだろう。
そう己に問いかけるたび、消えかかっている目的を思い出す。そうだ。この世の無為な戦いのせいで家族を失い、己の魔法は弱すぎて役に立たないことを知り、〈大魔法使い〉となって世界を変える決意をしたのではなかったか。
思い出すたびに、私は呆れ果てて嘆息する。なんと無謀な若者であったことだろう。身の丈にあわぬ野望を抱いたあげく、ここまでの長きに渡る年月を思うと、いまやこの山をおりることすらできない。
地を見れば闇、天をあおげば灰の霧。
もっと早く、あきらめるべきだった。もっと早く、おりるべきだった。
だが、もう遅い。私はただ前に進む。もはや、目的は失われている。
地を見てもきりがなく、天をあおいでもきりがない。
とうとう疲れきって歩みを止めた私は、その場に腰をおろし、幹に身をゆだねて目を閉じた。
この山を登ってきた無為な年月を戻せたら、私はなにをしていたのだろうと空想する。家族をもち、己のささやかな魔法で彼らを守り抜き、戦いのさなかにあっても笑みを絶やさずに生きていたかもしれない。
そんな朗らかな人生を、こんな私も送ることができたかもしれない。
この山を登りはじめたころ、仲良くなった友がいた。だが、その友は早くも悟り、山をおりる決意をした。別れ際、友は私に言った。
大魔法使いになるなど、馬鹿げたことだったのだ。伝説など、どこぞの吟遊詩人の戯言に違いない。きみも早くあきらめろ。きっと取り返しのつかないことになる。
結局、取り返しのつかないことになった。そう思い、ひとり笑う。
山に入ったときは、黒髪の精悍な若者だった。いまや、屍寸前。杖なくしては歩くこともできない、白髪の老人である。
ありとあらゆる人生の彩りをすべて捧げ、ただただたどりつけぬ頂上を目指し、灰色の山道を登った。そのような人生であった。
もういい。ここまでだ。登るのはここで終わりにし、ただ静かに目を閉じてゆっくり眠ろう。もしもドラゴンに見つかったなら、それでよい。いさぎよく喰われよう。
地を見れば闇、天をあおげば灰の霧。
私は目を閉じる。忘れていた深い眠りの訪れに、これまでの孤独な道のりが優しく吸い込まれていった。
ごうっとうねる風が頬をかすめ、まぶたを開ける。目の前に巨大なドラゴンがおり、両翼を広げて私を見ていた。いつもであれば恐れおののき、その場から立ち去る算段をつけるところだが、いまは心穏やかに歓迎したい。
ドラゴンが咆哮し、私に向かって牙をむく。私は目を閉じ、ただそこにいる。すると、地鳴りのように響く声が脳裏に浮かんだ。
――なぜ逃げぬ。
私は驚く。この山の主が、このような力を使って話せるとは、知らなかった。
――なぜ逃げぬ。
私は、長年の敵を見つめながら正直に答えた。
「逃げる場などないからだ。喰いたければ喰うがいい。骨と皮でうまくもなかろうが、好きにせい」
――死ぬぞ。
「誰もがいずれ死ぬ」
――おまえの目的はどうした。
「そんなもの、人が生きていくためには些末なものだ。愛する者を愛し、食べて笑って生きることこそが、魔法そのもの。その魔法を手放した私に、だいそれた目的など無意味なことよ」
――頂上は目指さぬのか。
「私に頂上などない。はじめから、なかったのだ」
私は己の手のひらを見た。皺だらけで、孤独の手。
「他とわかちあう喜びこそが、素晴らしい魔法であったのだ。この山を登らずとも、〈大魔法使い〉にならずとも、騒乱の地にあったとて、どんなにささやかであったとしても、私にもできることがあったはずだ。その人生のすべてを、いまのいままでこのような孤独に捧げてしまった。私のような大馬鹿者には、おまえに喰われる最期が妥当であろう」
微笑むと、ドラゴンが黙った。私は目を閉じ、覚悟する。それとともに、安堵した。
ああ、やっとだ。やっと魂となり、この山をおりられる。だが、待てど暮らせど喰われる気配がない。目を開けると、ドラゴンが言った。
――おまえを知っている。
なにをいまさらと、私は笑みをもらす。
「私もおまえを知っているぞ」
そうではないと、ドラゴンは言う。
そうではない。人には輪廻なるものがあり、おまえは今生以前も、その前も、その前も、その前も、けっしてあきらめずにこの山を登り、あがき続け、目的を果たせないまま俺と戦い、俺に喰われて朽ち果てた。だが、いまここにいるおまえは次の世、この山にはけっして登らぬであろう。愛する者を愛し、食べて笑って生きる道を選ぶであろう。
――だから、立つがいい。
ドラゴンの意図がわからず、不思議に思いながら杖をつき、立ちあがる。
上向いたドラゴンが、闇夜に隠れる星屑をかき集めるかのように、大きく息を吸い込む。そうして細やかに輝く宝石のような息を、私の杖に向かって吐きだした。
ただの枝が灯火のように発光し、純白の大理石のような強固な衣をつける。驚く私に、地をついてみよとドラゴンが言う。そのとおりに杖をつくと、雷のような音とともに周囲の木々が大きく揺れ、地面の草木がまたたいた。
両翼を閉じたドラゴンが、頭を垂れる。
――おまえにこの山の頂を見せてやろう。乗るがいい、大魔法使いよ。
いくつもの人生の果てに、私は無を知り、空になる。その空となった器を、長きに渡って求めていたものが満たしていく。
不思議なことに、歓喜はない。魔法はいたるところにある。ただここにあり、私の手の中にあるだけだ。
友となった長年の敵とともに、私は空を駆ける。残り少ないであろう今生のすべてを捧げ、ただ成すべきことを成すために夜を飛ぶ。
地を見れば闇。だが、天をあおげば――雲ひとつない青。
(了)
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