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日本語から、ひとつであったことを感じるということ

私は日本語の音がすきだ。
音と意味にあいまいさと奥ゆかしさを感じるから。

辞書を見ていたら、意味が七変化する言葉を見つけて妄想のスイッチが入る。

「かえる」という言葉。
おたまじゃくしからカエルに姿が変わるように、
言葉もの同じ音なのに意味が変化する。

カエルの完全変態ではなく
コトバの完全変態(笑)

カエル
変える
帰る
買える
替える
返る

漢字を見れば理解できても、会話の中では漢字が見えないので、イントネーションや前後につく言葉で意味を判断していく。

そんな難解な言語を操る"日本語使い" たちのすごさ考えたことあります?

日本語を使わない外国人にとって、そこに隠れる意味のおくゆかしさは理解しがたいかなと。

文字や音以外の表現にはない「空気を読む」感覚は
テレパシーのようだと感じてもおかしくない。

きっと、縄文時代は書き記す言葉は発展してなかっただろうから、音に感情をのせていたのかもなーと妄想していた。

縄文からあるという不思議な言葉やインドから中国を渡って伝わったお経、お祓いなどで使われる神道の祝詞など、意味がわからなくても、その音に何かを感じ取り、引き継がれ、今も残る。

そこに何かしらの感情が振るえるからだと思う。
振るえる理由は、音の周波数のゆらぎ。
心が響くチューナーに合いやすい音のせいだ。
だから、意味なんて分からなくても、有難いものだと信じて求めている。

反対に響かない時は、チューナーに合わせられず、意味に固執し、その音を頭で聴いている状態なのではないかと思った。

そう考えると響くところは脳ではなくて身体なんだ。

感情とは、身体の中に起きた変化を信号として、脳に送り、それを脳が推論したものだと聞いたことがある。
だから、脳はそこにある現象を後から意味をつないでいるだけだと。

相手から発せられる細かな音の調子、相手の感情のゆれなどを身体(五感)を使って受け取る繊細なチューナーが日本語には必要なのかもしれない。

発音の意味以上に、そこに流れる空気が言葉の意味を変え、意味のあいまいさえ受信できる文化や信仰、感覚的な民俗だなって思う。

言葉足らずとも
伝わるやさしさ

時には、文脈を知らない人がその発音の意味だけを受け取り、真意が伝わらず、やさしさが仇となったりすることもある…。

良い悪しなく
ただ、相手を思う

そんな潔さ

「空気を読む」

私とあなたが同じ空気を共有し、
境界をあいまいにしてることさえ気づかず、
相手を思う。

そこには「願い」や「祈り」さえ感じる。


そんなこと思いながら
言葉ので音あそびをしてみる


気づかいは
息づかいに合わせて
ひとつであったと感じること

ひとはひとつ
ひととひとと
ひきあわせ
ひとりひとり
ひとみあわせ
ひといきのしあわせ
ひろいあつめ
ひとときあいにいく

気づかいは
息づかいに合わせて
ひとつであったと感じること

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