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今の松村北斗にどうしてもコンテンポラリーダンスを踊ってほしい

※この記事はSixTONESのツアー、Feel da CITYのネタバレを含みます。ご注意ください。

最近もっぱら松村北斗のことしか書かなくなっているこのnote。
他にも推しはいるのに、情報供給が日々多すぎて、考えさせられることが多すぎて。考えても、考えても、松村北斗の魅力は計り知れないのである。

そんな魅力溢れる松村北斗のことを、私はかねてより“表現者”として見ている。表現する上での自分の立場や場所、手法は違えど、彼は常に日々表現をしているのだ。アイドルとして、俳優として。その表現は周囲から求められたものに応えることはもちろん、彼の解釈が加えられたものになっており、彼の魅力を形作る核と化している。彼を見るたびに、全く異なる人物に感じるのは彼がそれぞれの場所で表現をし、演じているからだと私は感じている。そしてこの表現力はここ2~3年でメキメキと伸びているように見える。これは俳優として、朝ドラをはじめとする数々の作品で彼を知る誰もが感じているはずだ。しかし、それは俳優だけでなく、本業のアイドルとしての姿にも表れている。


2022.04.10 Feel da CITY

先日の静岡に続いて、Feel da CITYの北海道公演にお邪魔した。4月10日(日)の夜公演。上手スタンド上段の席で、全体を見渡せる良い席だった。Feel da CITYの松村北斗の立ち位置は上手が多いため、前回同様、双眼鏡地蔵で松村北斗を見つめ続けることができ、非常に良かった。そんな中で松村北斗の“表現”という観点で印象に残った楽曲が、「真っ赤な嘘」と「Ordinary Hero」だった。松村北斗の中にはこの2曲の世界観や歌詞に対する自分の解釈が存在して、表現したい“何か”があることが明確に伝わってきた。


「真っ赤な嘘」

正直、静岡公演で見た時はそこまでの情感を感じ取れなかった。席の問題もあると思うが、公演を重ねるごとに彼の中で育っているものがそこにはあるのだと思う。

この楽曲は聴き手に様々な解釈を与える。
本人たちが明言している内容としては、この楽曲の中にはポジティブなキャラクターとネガティブなキャラクターが存在しているということである。松村北斗が歌う不安を高地優吾が打ち消していく展開で楽曲は進んでいく。あとのことは全て聴き手に委ねられている。相反する感情を抱いている二人の人間かもしれないし、恋愛をしている男性と女性かもしれない。はたまた一人の人間の中の天使と悪魔かもしれない。
そんな中で私の解釈はただ一つ、愛する恋人との未来を案ずる女性の葛藤である。自分に対する素振りや会話が惰性のようで、かつてみたいにときめくことも、心が揺さぶられることもなくなった。これはあなたが薄れていっているのだ。と語れば、いや、それは恋をしていただけで、今は愛に変わったんだよ。相槌のみで愛を感じるでしょう?とざわめく不安に語りかける。「相手からの愛情を感じられない」という事実どのように捉えるか。ポジティブな自分は恋から愛に変わっただけで、二人の関係は育っている、と信じる。ネガティブな自分はもう確かな感情は感じられず、相手を疑ってしまう。もう、お互いの存在が薄れている、と失望している。本当はどちらなのか、確かめたいのに確かめることが怖い。本当は気付いているけど、認めてしまったら、終わりが来るかもしれない。だから、見て見ぬフリをして、うまく笑えないまま、偽りの自分を装っているということだと私は解釈している。
この繊細かつ複雑な表現が求められる楽曲をステージでどう表現するのか。ツアーが始まる前から胸を高鳴らせていた。実際には、鏡を模した一つの枠を境に、ポジティブな世界、すなわち愛があると信じている世界と、ネガティブな世界、すなわち愛は失われたと絶望する世界に分かれている。それぞれに高地優吾と松村北斗がいて、そこには明らかに交わることのない分断された二つの世界が存在している。ただ、振付としては正反対の自分を映し出す鏡を見るように、互いに向かい合う場面やシンクロした動き、救いを求め、手を差し伸べる動きなど、二つの正反対な世界線に存在する一人の人物を表現していることが伝わる演出だった。
そのような作られた舞台の世界の中にいる松村北斗は、本当に愛を失う不安に駆られ、絶望しているように見えた。白のオーバーサイズのパーカーに身を包み、そこに存在しているかどうか、存在の危うさを感じさせる儚い空気を纏い、目には空虚感を映す。楽曲の始まりでは体育座りで蹲り、俯き、現実から目を背け、絶望の中に居る。楽曲が進むにつれ、振付が増えていくが、北斗の踊りには温度感が全くない。手の振付が印象的な楽曲ではあるが、彼はその歌詞の意味の表現、すなわち諦めの感情や愛に縋りたい想い、不安から逃げるような切迫感を身体全体で見事に表現しているのだ。例えば、頭を抱えるような動作一つとっても、勢い任せに頭を抱えるのか、それとも静の動作を経て、突然頭を抱えるのかでも全く異なる印象を受ける。一つの動作を取り巻く緩急や前後の表現との関係によって、受け手の捉え方は変わる。それが彼は絶妙なのだ。
蹲って、俯いていたのに、顔を上げ、立ち上がる。その動作自体は後ろ向きな気持ちから前向きな気持ちに変化する姿の象徴のようなものである。でも松村北斗の場合、それは決して前向きな理由で顔を上げ、立ち上がったのではない。絶望の中で救いを求めるために立ち上がっているのだとすぐにわかる。ポジティブな世界に縋るように、高地の方へと手を差し伸べる時も、本当はそちらの世界に行きたいけれど、でも囚われて動けない絶望感に満ち溢れている。その姿に見ているこちらが胸を締め付けられるほどだった。
(言葉だけで表現することに限界を感じるため、DVDが発売されたら、一番に見ていただきたい。)


「Ordinary Hero」

こちらの楽曲は「ザ少年倶楽部」でも披露され、話題になったが、ツアーの演出で見ると、また一味違うものに仕上がっている。

「Ordinary Hero」は日々自分の目指す姿のために、自分に与えられた役割を全うするために、戦う人たちへ寄り添ってくれる楽曲である。生きていると、目の前に立ちはだかる壁に心が折れそうになったり、自分がやっていることの価値や意義を見出せなくなることがある。誰かに価値を返せているのだろうか?何かを提供できているのだろうか?何のためにこんなにすり減らして、がむしゃらにやっているのだろうか?こんな時、憧れてたHeroならどうするんだろう?と思い悩む人へのエールソングである。「Heroも思い悩んで、挫折や失敗を乗り越えているから今の姿がある。君は今も十分カッコいいよ。」と寄り添ってくれるのだ。

ツアーでは、Aメロで各メンバーそれぞれにセットが準備されており、松村北斗はテーブルと椅子のセットに腰掛けているとこらからスタートする。「Look up to the sky ため息ひとつ 憧れてたheroならどうする」という松村北斗の歌い出しから始まるこの楽曲。自分に対する諦めのような歌詞から始まり、松村自身のパートの後の松村北斗がすごく良いのだ。
このAメロは他のメンバーによる歌詞が、下記のように続く。

He would always win the fight
She would always end with smile
でもlook at me now投げだそうとしてる

When you build it up just to watch it fall
I know 諦めたくもなるでしょ
でもyou seeどんなheroも
Had to fall before they learn how to fly and all
That’s right

No cape to fly
but hey I’m fine
誰だってshine so bright

諦めかけていた自分を受け入れながら、自分自身を認めてあげるような、前を向く力になるほど大きなものではないけれど、そっと背中を押してくれるような前向きさを徐々に取り戻していく。サビには軽やかなステップを交えた振付があり、気持ちが軽やかになっていく様子がこちらにも伝わってくる。
だからこその対比を生み出すためか、Aメロの松村北斗は自分自身に抱くやるせない感情の表現に溢れているのだ。肩を落とし、俯いていたかと思えば、天を仰ぎ、頬杖をつくような。落ち込んで、どうしたらいいかわからないというシチュエーションがそこには存在している。彼の姿を見れば、そういう想いの中にいることが容易に想像できるし、こちらも感情移入できてしまうのだ。正直松村北斗しか見ていなかったので、他のメンバーがどういった表現をしていたかはわからないが、たった36秒のAメロがまるで映画を見ているのかと思うほど、引き込まれる世界になっていた。松村北斗にも「Ordinary Hero」で歌われているような日があるのかもしれないと思わせてくれる。松村北斗自身がこの楽曲の主人公を体現している。


音楽において、振付というのはその楽曲を表現するための一つの手法である。ただアイドルの場合、彼ら自身をカッコよく見せるという役割もある。でも振付以外の余白で自分をどう見せるのか、何を表現するのか、何もしないのか、それはアイドル自身に委ねられている。そこに個性が出る。「Ordinary Hero」のAメロなんてまさしくそうだ。自分のパート以外を生かすも殺すも自分次第。そこで松村北斗は自分なりに解釈した楽曲の世界観の中の主人公を演じているのだと私は受け取った。誰も自分のことを見ていないかもしれない、その瞬間さえも彼は表現者として存在しているのだ。

実はこの2曲を松村北斗自身が1月に発売された2ndアルバム『CITY』のなかで「一番自分の中で没入感があるのは、“Ordinary Hero”、あと“真っ赤な嘘”です。」と語っていた。その言葉通り、この2曲に対し、彼の中で表現したいものがあるということがしっかりと伝わってきた素晴らしいパフォーマンスだったと思う。

これほどまでに解釈する力、そして自分の身体を使って表現する力を何故彼が持っているのか。それはきっと彼のこれまでの全ての経験、お仕事だけでなく、人間関係や趣味も含めた経験で培われたものだと思う。だからこそ私は今彼にコンテンポラリーダンスを踊ってほしいのだ。楽曲の世界を身体だけで表現するものが見てみたい。以前「僕が僕じゃないみたいだ」をMステで披露した時、冒頭に松村北斗だけ振付がされていたことがあった。きっと今またあの振付を踊ったら、あの時よりも繊細な表現ができると思う。身体の奥底から感情が湧き上がってくるようなそんな彼のダンスが見たい。(GANMIさんとの出会いはその道が拓かれるかもしれない。)

魂は細部に宿る。松村北斗のダンスはいつだって、繊細で抜かりない表現で作り上げられているのだ。
彼の表現に没頭できる世界をいつか見てみたい。


ps.5/13(金)「ザ少年倶楽部」で披露された『わたし』を見て、その想いはさらに強くなりました。松村北斗の指の第二関節の動かし方、手首の動かし方、肘の使い方、余韻のある首の動かし方、全てが美しかった…。「ひとつひとつ」と指を立てた時の繊細さを感じる小指の使い方が印象的だった…。動作全てからこの楽曲の主人公の感情が伝わってきた。韓国ドラマ『ナビレラ -それでも蝶は舞う-』を日本版でやることがもしあったら、どうか北斗をキャスティングしてください。

Feel da CITY@静岡の感想はこちら。

ちなみに私がここ最近で一番好きだった松村北斗のダンスパフォーマンスはテレ東音楽祭の「共鳴」です。





おけい

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