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2016/7/12の日記〜レッドクロス運動、船から降りる、港で手を振る〜

思っていたよりも太い針だった。針は左腕の肘の、反対側の薄い皮を突き破り、静脈へと射しこまれる。その間、看護師はレッドクロス運動(下肢筋緊張運動)を勧め、僕は言われた通りに伸ばした足を重ね、5秒力をキープし、そして5秒間力を抜いた。これを繰り返すことで筋肉の収縮により血管が圧迫される。その圧迫を利用し、心臓から流れてく血液を脳へ多く届け、副作用を防ぐわけだ。僕は空いている方の手で教科書を開き文字を目で追った。文字はうまく文章を構成させる間もなく、思い思いに視界を駆け抜け、僕を置いてけぼりにし、通せんぼをし、それから舌を出し、アッカンベーをしてまた走り始めた。まぁ要するに、集中して読むことができなかったわけで。代わりに目を閉じて考え事をすることに決めた。

 なぜかバイオリンで讃美歌が弾かれた。沈みゆく船を背景に、叫び声をあげて救いを求める船客が映し出され、讃美歌が流れる。おそらく映画「タイタニック」のクライマックスのシーンだ。何度も何度も繰り返し同じ映画を見ていると主人公の動きや心情の変化よりも、むしろモブの人々の場面に目がいってしまう。3日足らずのうちに永遠の愛を燃やした若い恋人たちについてはさておき、沈まない船と言われた豪華客船での最期を迎える船客の描写に心が動く。沈みゆく船の船長や、沈む船を作った自分を嘆く造船家だとか。救命ボートに妻と乗れないことを悟り、ベッドの上で抱き合って最期を迎え入れる老夫婦だとか。主よ、御許に近づかんと謳われる。どれほどの罪を犯しても、どれほどの悲惨な状況であっても信じることで救われる、あぁ神よ感謝永遠に。

 今自分の状況と照らし合わせて見て、僕が赤い血を流せているのは、もちろん死んでいないからだけど、豪華客船が氷山にぶつかることなく港に着いたからだろう。劇中、「氷山は匂いで分かる」と言った見張りがいるならいざ知れず、僕はベテラン水夫よろしく潮の流れを読んで船から降りた。そう信じる者しか救わないせこい神様拝むよりは、自分を信じて船を降りるが吉だ。それでもお前は血の通った人間か!と言われそうだけれど、真髄はそういうところにあるわけでなく、船が沈みゆくその直前まで演奏を止めなかった楽指団になれないし、あるいはならなかった、というところにあるのかもしれない。これから氷山を回避できる方法はいくらでもあるのだろうけど。

一方で僕は航海を終えた。

 なんのことかと思われるだろうが、20年前の映画に想いを馳せるうちに今船を降りることができて良かったと思った。ほんとに何のことかと思われるだろうが。とにかく、船が次の港へ無事辿り着くためには、船長と一等航海士と甲板長とそれから見張りがいて…、とにかく誰一人として役割を欠けてはならないのだろう。航海の安全を祈り、僕は港で手を振る。

 「終わりですよ。」と看護師が言い、針を腕から引き抜く。刺す時よりも抜くときのほうが痛く、しばらくチクリと残る。考え事に集中してレッドクロス運動を怠ったせいか、少しめまいがした気がした

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大学のサークル引退の時の悲痛な想いですな。

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