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ひそひそ昔話-その12 『黒い雨』の時代と、現代と-

教室のうしろに飾られる,、読書ポップづくりの仕上げ作業をしていると、隣の班を見終わった副担任の先生が近づいてきた。机の上に置かれた私の文庫本を手に取り、その表紙や裏表紙の内容紹介をじっくり眺めた後、彼は口を開いた。寡黙なリクガメを思わせる口の開き方だった。
「井伏鱒二、黒い雨。私も読みました」
そして机の上に本を置き、「素晴らしいですが、本当につらいお話です」とだけ言い、別の班へと移動していった。
姑息で、卑怯で、周囲の評価を気にしいな性格だった高校1年生の私は、読書を促すための学校をあげたキャンペーンである読書ポップづくりにおいても、その性格の片りんを見せつける。「黒い雨」という戦争を扱ったテーマの一見難しい小説を題材にすることで、周囲とは一段階違った人間なのだということをアピールしたかったのだろう。要は、言葉は悪いが「ウケ狙い」だ。そのウケに応えたのが副担任の先生だったわけだ。
畳の上に座り、黒い墨に筆を浸し、黙々と半紙に向かって字を書く、芸術・習字の担当の先生だった。真面目な人だったように思う。
余談だが、「墨汁は死を連想させる」という文章題の掲載された塾のテキストを思い出す。

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小学校の修学旅行は長崎だった。タイトなスケジュール進行は渋滞によるタイムロスによって、大幅に計画を狂わされていた。平和祈念像の前でかなり実務的で記念的な集合写真を撮られ、原爆資料館はたった30分間で巡ることになってしまった。1日中バスでひたすらあちこちを動き回った小学生たちにとっては、その体に疲労を溜め込むための容量は残り少ない。被爆体験談を語るその悲哀と苦渋と悲痛な面持ちの老人のマイクを通した声は狭い会議室にこだまのように反響した。うとうとしてしまう生徒だってもちろんいた。焼け爛れた皮膚や、病床に並べられた遺体や、瓦礫と灰の山と化したかつての長崎を捉えた白黒の写真が、資料として配られていた。そのむごさ、凄惨さに目を背ける生徒だっていた。老人のリアルでショッキングな体験談に耳を塞ぐ生徒だっていた。
15年前のことなので私も話の内容などはよくは覚えていないが、あの会議室に漂う異様な雰囲気だけは忘れてはいない。
そんな私たちの小学校には、空襲の被害によって命を落とした生徒を供養するための石碑が正門近くにあった。1945年5月11日午後集団下校中に理不尽に命を奪われた12名。彼らの名前が石碑に刻まれている。登下校時にその石碑の前を通るときには、手を合わせるようにと教育されてきた。実際にしたかどうかは、不都合にも覚えていない。

生まれる半世紀も前のことなんてあまり想像できないことだけれど、半世紀前を生き抜いてきた人の言葉なら想像できる。私はふとした時に祖母に戦時中のことを聞いたことがある。当時小学三年生だった祖母は毎日兵隊のためにおにぎりを握って差し入れしていたらしい。炊事に長けているから「かあちゃん」とあだ名をつけられ、汗水たらしてよくやったもんだと祖母は昔を懐古する。抜けるほど青い空の下、空襲警報が鳴り、戦闘機が飛び交い、爆弾が落とされ、人が死ぬ。そんな時代を生きていたのだ。

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『黒い雨』の中で、被爆した主人公夫妻は、婚期を迎えた姪の縁談に頭を何度も痛める。姪は被爆者ではないのに、「市内で勤労奉仕中被爆した」とデマを流され、その度破談を繰り返される。主人公は姪が被爆者ではないことを当時の日記を清書し証明しようとする。しかし、実際には姪は主人公夫妻の安否を確かめるための瀬戸内海の船上で黒い雨を浴びていた。再会した夫妻と広島市内を逃げ回る間に残留放射線も浴びてしまっていたのだ。やがて姪は原爆症を発症し、病状は悪化、やっときていた良い縁談も破談になってしまう。
戦争終結までの日記を清書し終えた主人公は、奇跡の虹を山の向こうに想像し、その虹に姪の回復を祈る。

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さて、今回のひそひそ話は特に収束するべき話題で〆る必要もないのだが、あえてするのならば、ただデマというのは恐ろしいということだ。また誹謗中傷というのも同じく挙げておこう。科学的に正しくもない情報と、倫理的に誤ったジャーナリズムと錯綜する集団心理に踊らされ、例えば、うがい薬を買い占めることのないよう。匿名を笠に着て、執拗に誰かを追い詰め、彼らの断末魔が聞こえてやっと、私はいつでも聖人でした、みたいな顔をして悔やむことのないよう。抜けるほど青い空の下、冷房の効いた室内に蝉の鳴き声が壁に浸透してくる。そしてどこかで人が死んでいる。結局今でも我々はそんな時代を生きているという事実自体には変わりはない。


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