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【断片小説】ジャパニーズ・スクラップ&ビルド

「お母さん、わたしもう外に出ても大丈夫かな。ミナちゃんに会いたい」先週、8才の誕生日を迎えた娘は、腕を組みながら母親に訴えた。
「ダメよ、あなたは病気が治ったばかりなんだから。外出でもしてみなさいな。恐ろしいことになるわよ。それに、ミナちゃん家族は先月から岐阜のおばあちゃんの家に旅行に行ってるのよ。もう会えはしないわ。今日はおウチでママと一緒にテレビでも見て過ごしましょう」
娘はそれを聞いて、ため息をついた。
そういえば毎日何度も同じ質問をしている。そのたび、母親はこの調子だ。あくまで事務的。
「はいはい、今日も、でしょ。お父さんは?」大きくなったとは言っても、まだまだ中身は子どもなのだ。この子には父親の存在が必要なのだ。
「パパはお仕事なのよ。世界がこんな状況なんだもの。ヒーローのパパは戦っているのよ」
「誰と?」
母親はその質問には答えず、ニッコリと微笑んだ。
「さ、ごはんにしましょうか」
娘は母親のその茶色い瞳が笑っていないのを見逃さなかった。自分の母親の瞳が果たしてこのような色をしていたかどうかを、今一つ彼女は思い出せないでいた。
「階段の倉庫に確か桃の缶詰があったでしょ? あれ、取ってきて。パインの代わりに桃で酢豚にしましょ」

娘は階段下の倉庫へと向かう。そこにはありとあらゆる食材や日用品のストックがあった。だが幾分、その量は減ってきているようだ。奥の方に金網で囲われたスペースがあり、なにやら物騒な金属的なきらめきを放つ機械があった。娘の父親は一級の電気技術開発者で、自家発電設備をそこに作っていた。この家は全てそれで、まかなわれている。と、娘は母親から聞いていた。


朝からテレビの画面には、顔色の悪いアナウンサーがニュースを読み上げる様子が映っていた。

—…感染拡大を受けて、政府は先月28日、全国すべての学校に臨時休校とするよう各都道府県の教育委員会を通じて要請を正式に発令しました。—…治療法は未だ確認されておらず、中国では既に…—。ヨーロッパや東南アジア、中東の一部の国では財政破綻が確認され…—


「お母さん、明日遊園地行きたいな」豚の入っていない、酢豚をスプーンで掬いながら娘は言った。
「残念だけど、それも無理ね。そもそもディズニーもUSJもありとあらゆる遊園地がお休みしているの。それだけじゃないのよ。図書館も美術館も、水族館も動物園も、映画館だって今はお休みしているの」
「もういいよ。ごちそうさま」餡に絡められ、ドロドロに溶けた桃が一つ、皿の上に残った。娘は果物を焼いたりして食べるのがあまり好きではない。
私が眠って意識のない間に、本当になにもかも世界は変わってしまっていたようだ、と娘は思った。娘は自分が失った半年間のことを想った。娘は、ニュース映像を止め、プレイヤーからディスクを取り出し、代わりに「ショーン・オブ・ザ・デッド」のDVDを入れた。お父さんが好きな映画だった。はず。
見終わるとまた6月25日の日付が書かれたDVDを入れて再生した。こうしないと母親が怒る。
相変わらず、顔色の悪いアナウンサーがニュースを続ける。

—政府が非常事態宣言を発令した今、経団連は全ての民間企業に協力を求めています―…、東京オリンピックが中止となった今、日本の経済は破綻への道を…—…「経済が破綻したところで、会社には行かなくちゃならんのですよ、どうしてですかねぇ」…—…日本だけではなく、世界が…—


「お母さんはそういえば仕事いかなくていいの?」
「ママはデザイナーなのよ。別に会社に行かなくたっていいの。最近流行りのリモートワークよ、リモートワーク。」
はて、そうだったろうか。娘は記憶を探った。私の親は白衣を着ていたはずだ。職場に遊びに行ったこともある気がする。

なにかがおかしい。

昼下がりの時間になって、娘は、母親が電気プラグのような形状の細い針を首に挿して寝ているのを横目に玄関へ向かった。母親曰く、これが肩こりに効くらしい。
鍵を外し、チェーンを外し、重い扉を開けた。長い廊下がある。3メートル進んだ先にまた扉があった。その扉の鍵を外し、重い扉を開ける。

母親はプラグを抜き、再起動した。そしてラジオニュースを受信した。
アナウンサーらしき男の声は舌足らずな口調で言った
—8月16日―…臨時の連続で何が一体臨時なのかわかりませんが、臨時速報をお伝えします。今、世界を蔓延する致死的ウイルスに対して唯一の抗体を持った少女が都内を歩いているのを確認され、補導されました…—実に失踪以来半年以来、彼女は一体どこにいたのでしょ…—…世界に希望が…—


ロボットは、爪を噛んだ。正確には、爪に限りなく似させて作られた精巧なプラスチックの爪だ。これで、我々の滅ぼそうとした世界、あるいは望み通り滅びた世界に希望が戻った。パンドラの箱の中に捕らわれつづけた希望は、最後の最後に外に解き放たれたのだ。娘はこれから徹底的に検査されることだろう。良心的な研究機関に渡ればいいのだが。日本の製薬機関がワクチン売買によって資本を肥やすかもしれない。致死的ウイルスの蔓延した救いようのない世界。スクラップされた世界。元々救えないところまで堕ちていた世界だが、中枢機関の人工知能は、治療法のないウイルスが蔓延し始めた時、その世界を一度滅ぼすことで再起を図ることを決めた。また、それが世論の潜在的な望みでもあったはずだ。世界は、再び荒野から始まる。希望の芽は幼い。だがそこから、洗練された文明がビルドされていくはずだ。

だが、果たしてそう上手くいくものだろうか。私は見かけだけ精巧に作られた、ただの家政婦ロボットだ。そう長期的な未来を正確に予測する機能はない。誰にとっても、何にとっても、つまり世界にとって、これは賭けである。


※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称、さらに事象・現象等は架空であり、実在のものとは一切関係ありません※

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