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【断片小説】八重歯、すきっ歯と笑う

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「先生、この問題、男と女しか出てこないの間違ってない? 今どき性別が2つしか出てこないのナンセンスでしょ」チャイムが鳴ってまもなく、ユウキは教壇ですでに教材を整え帰り支度をしている数学教師の川田に強く詰め寄った。黒縁メガネをかけたその若い教師は彼女の勢いに気圧されたが、それでも彼女の目の前に人差し指を示しながら冷たく言った。
「いいや、間違っているのは君が導き出した答えだ。いいかい。順列・組み合わせ問題は基本だよ。臨時休校中の課題にも似たような問題があったと思うけど。それにジェンダー論や男女問題をただの数学の問題と混同させないでおくれ。なぁ、横内、真面目に取り組もう。高校生活が人生のピークになってしまうぞ」

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校舎と校舎とを繋ぐ渡り廊下からは、中庭を一望できる。以前ならここから人間観察をするのが彼女たちの「昼休みの遊び」の一つだった。人間なんて俯瞰して見てるのが一番よ、というのがミズキの持論であった。緊急事態宣言が解除され、学校も再開したものの「日替わり登校」が原則となった。校舎内の人口密度を少しでも減らし、感染拡大を予防するのが狙いだ。おかげで校舎内は昼休みというのに去年と比べてひときわ静かであった。
「川田をそんなに困らせてやんなよ」ミズキはオニオンベーコンパンを頬張りながらモゴモゴ言った。空は青く、ひこうき雲が1本引かれていた。どこまでもどこまでもまっすぐ伸びて、世界を上下に分断している。
「なんかねー、どうも納得いかないんだよね」と言った。それからユウキは、マスクを顎の下までずり下げると、制服のポケットからリップクリームを取り出し、そのもぎったばかりの蜜柑のような唇に塗った。
「あれでも、昔は生徒会長で皆から慕われてて、勉強もできて、そのうえスポーツもできて、それなりの大学にも行ってたみたいよ」
「マジで。なのにこんな田舎の自称進学校で教師やってんの? ちょっと同情しちゃう」ユウキは顎の下のマスクを元に戻そうともせず、驚愕した。
「そのうえ内定先まで蹴ってんだから。それだけ母校で教鞭をとることに使命感じたのかしら」3分の1サイズになったオニオンベーコンパンを片手に、ミズキは伸びていくひこうき雲の端の方を眺めていた。
「ピークを取り戻したいのかもよ。あの頃の青春をもう一度、的な。ずいぶんと空回りしているみたいだけど」ユウキは言った。
「あんたのせいでね」とミズキは顔も見ずに短く呟いた。「臨時休校中の課題、あんたやってないでしょ」
図星らしく、ユウキは前歯を舌で舐めた。先のとがった2つの八重歯を磨くように丹念に。それは彼女の悪い癖である。この長い歯が唇を傷つけることがよくあるために、彼女はリップクリームを手放せない。
「ミズキ、あんたはやったの?」
「やったよ。そのうえすごく勉強した。うちらももう高校3年生だからね。まるで自分がバカだったことをわすれるくらいに勉強したよ」

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「今となっちゃあんなんだけど、川田って歯並びだけはカンペキなんだよな。磨き抜かれたピアノの鍵盤みたい」ミズキはそう言うと、残ったオニオンベーコンパンを一口で頬張った。
「それはそれは、思いっきりグーパンチでもしたらさぞ綺麗に鳴るんでしょうね、あのピアノマン」一本おきにお歯黒を塗ってもっと鍵盤らしさを際立たせてあげるべきかもしれない、とユウキは思った。
「ピアノマンのことで思い出したんだけどさ、ユウキ、バンドまだやれてんの? あのダサいV系みたいな名前のバンド」とミズキはユウキに尋ねた。ユウキはギタリストである。去年一昨年の文化祭にもバンドで演奏をしており、それなりに盛り上がっていたことをミズキは覚えている。
「ヴァンパイア☆キラーズはこの臨時休校期間の間に解散しましたー」とユウキは何かのサビを歌うように呟く。
「じゃあ、ボーカルの彼とは?」
「解散しましたー」リフレイン。
「なんで」
「なんか違うなーって」
なんか、ってなんだよ。とミズキは思った。ひこうき雲は今ではすっかり薄くなってしまっていて、青空が再び一体となるのも時間の問題だった。
「なんか、って何よ」とミズキは笑いながら改めて食いかかった。
「あ、笑ったな」ユウキは悪戯っぽい目でミズキを見上げた。ミズキが本当に笑うとその薄い唇の下からすき歯が覗く。ミズキは口を手で覆うとポケットからマスクを取り出し、耳にかけた。ミズキにとって歯列の悪さはコンプレックスだった。生まれつき他の人よりも歯の本数が少ないためにすきっ歯になったのだ。
「ねぇ、隠すことないと思うんだけど。ミズキの歯、とっても素敵よ」
「そんなわけない」とミズキはきっぱりと言った。そんなわけがない。これは自分の中で忌み嫌っている身体の部位の一つだった。
「そんなことあるよ。どうしてちゃんと笑わないのよ」
「笑ったところで、パンくずが挟まってたら恰好付かないでしょう?」
呆れた顔をしたユウキが人差し指を顔の前に出して「良いことを教えてあげましょう」といった。「Dents de bonheur(デン・ドゥ・ブヌール)、幸福の歯。フランスじゃそのすき間には幸せの風が吹き込むっていわれてるんだよ。イギリスじゃ強運で個性的でセクシーって言われてる」
「なにそれ」
「あんたが授業中居眠りしてる時に聞こえてくる寝息、わりに聞いてて心地いいよ」
「もう、なにそれ」ミズキはマスクの下で口をあけて笑った。「あんたのその横柄さ、多すぎる歯と一緒に少し分けてほしいよ」

〇〇

高校を卒業し、事態が落ち着いたらフランスにでも住んで二人でルームシェアでもしようとユウキがミズキに提案してきたのは、帰り道でのことだった。夏至に向けて日照時間は伸び続けるばかりで、5時になっても外は明るいままだった。
「残念だけどムリだね」とミズキは断った。
「どうして」とユウキは噛みつく。
「フランスじゃあなたみたいなヴァンパイアは忌み嫌われてるからよ。ハロウィンで旅行するっていうのなら話は別だけど。あんただけ蔑まれるのを見てるのなんて心が痛むわ。ほんとに、ほんとに残念」とミズキは大げさに頭を振ってみせた。バンドメンバーがヴァンパイアの入れ歯をしている中、ユウキだけ自前だった。それほど、彼女の八重歯は大きく長い。キリスト教圏になんて住んでみればいい。きっと誰かが(ユウキも含めて)傷つくだろう。
「なにそれ。そんな奴ら、ガーリックスライス頬張った口でキスしてやるわ。愛と友好のしるしに」そう言いながら弾けるように笑う。
「それよりはさ、渋谷にでも出てさ。一緒に暮らそうよ。福岡でも、大阪でも良いけど。きっとフランスにいるよりは上手くいくと思う」とミズキは眉を直線にして言った。
「なにして暮らすのさ」
「歯科専門学校にでも通って、すきっ歯と八重歯の素晴らしさについて学び、世の中の完璧歯列主義者に訴えていくわけよ。だから勉強しなきゃね」
「矯正されるかもよ。そんな歯並びを許せるわけがないって」
「そのときは一緒に歌でもつくって文化思想家にでもなろう」

ミズキはたぶん本気なんだろう、とユウキは感じ取った。そして臨時休校中にずっとこびりついていた違和感がサッと剥がれ落ちるように無くなったのを感じ取った。
「ビリー・ジョエルのピアノマンって知ってる?」とミズキは尋ねた。
「洋楽は『Somewhere over the rainbow』しか知らない」
「よくお父さんが車で聴いてたんだけど」と前置きをし、ミズキは1コーラス歌った。
素晴らしいメロディーではあったが、ユウキにとってそれはひどい詩だった。人生のピークを迎えるにはまだ私は若すぎる。数学教師ピアノマンの言うとおりかもしれない。
「メロディは気に入った」
「歌おう。覚えて」

Sing us a song you’re the piano man
Sing us a song tonight
Well we’re all in the mood for melody
And you’ve got us feeling alright

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